2018年09月23日

「縄文人はなぜ死者を穴に埋めたのか」を読んで

 2年ほど前に大島直行先生の前著縄文人の世界観について記事を書きましたが、そう言えば今回の著作縄文人はなぜ死者を穴に埋めたのかについて考えをまとめていませんでした。そうこうするうちにNHKの番組で取り上げられたりして、おまけに記念講演までやることになったので、その講演を拝聴する前に予習として感想をまとめたいと思います。今回も私見てんこ盛りなので書いていることを鵜呑みにせずに、ちゃんと本を買って読んで下さいね。

講義が始まったぞ!
 まず本を手に取ってみて読み進めてみたところ、前著「縄文人の世界観」から大きく異なる印象を受けました。
 ですます調の丁寧で平易な文体は相変わらずですが、その内容は芸術、宗教、心理学、民俗学など多岐にわたり、それらの説明のため引用が非常に多いのが特徴です。
 読んでいて、常に頭の中を整理しつつ読み込まないと自分自身の位置を見失うような錯覚を覚えます。しかしながら、学術的なテクストとして読めばこれは当たり前のことです。
 ヨーロッパの知識人達のテクストなどでは、抽象的なキーワードとア・プリオリという決まり文句だけで話が進むことも多々あるので、引用が豊富ということは親切であるとも言えます。
 例えるなら、今までの著作は縄文についての大島仮説についてわかりやすく解説していましたが、今回はもっと濃密な講義を行っている。そんな印象です。

脳と心が生み出した迷宮
 先日、NHKの歴史秘話ヒストリアに大島先生が出演され、やはり再生や月の水、ヘビのシンボライズなどについて述べられました。本書の読了後だったこともあり、興味深く拝見しましたが、その後にこの記事を書こうと思い読み返してみました。
 本書の内容は全部で7章に分かれており、1章から3章にかけて心理学や民俗学の成果を用いながら、我が国の考古学が抱える問題点を明らかにしつつ、縄文の読み解きのための方法論を提示しています。
 4章から6章まで、土器、ムラ、家、ストーンサークルについて子宮的性格という観点からのさらなる分析を展開しています。内容としては、今までの大島先生の主張されたことや研究のための方法について、その根拠を示しつつより精緻に述べられています。そして、ここでも考古学の現状を批判しています。
 ここまで読み進めたところで、谷川俊太郎の「脳と心」という詩をふと思い出しましたので、私もマネして引用してみたいと思います。

「脳と心」

この卵型の骨の器にしまってあるものは何?
傷つきやすく狂いやすいひとつの機械?
私たちはおそるおそる分解する
私たちは不器用に修理する
どこにも保証書はない

その美しいほほえみの奥にあるものは何?
見えるものと見えないものが絡み合う魂の迷路?
私たちはおずおずと踏み込む
私たちは新しい道標を立てようとする
誰も地図はもっていない

しかもなお私たちが冒険をやめないのは何故?
際限のない自問自答に我を忘れるのは?
謎をかけるのは私たち自身の脳
謎に答えようとするのも私たち自身の脳
どこまでも問い続け・・・いつまでも答えはない

 謎を解き明かしたいという研究者達の欲求。しかし長い年月を費やして自らが組み上げた構造体から抜け出せなくなっている考古学者達。そこに異論を述べると批判し無視する。でもそれは自らを否定することになるかもしれないという漠然とした恐怖であり、極めて非論理的かつ人間的な反応とも言えます。
 そんな人間ドラマも行間から垣間見える論考であり、縄文の謎に答えようとしつつ、近代考古学史としても読めて大変面白い部分です。

よみがえりやまぬもの
 さて、最期の第7章は本書のクライマックスとも呼べる章で、縄文人はなぜ死者を穴に埋めたのか、について論じています。
 この章に限らず、本書ではすべての章の冒頭で引用文がおかれています。第1章から第6章までの引用文は、それぞれの章の内容に符合する他の研究者などのテクストからのものですが、この第7章だけはそれまでと異なり、ポール・ヴァレリーの詩を引用しています。
 ポール・ヴァレリーは19世紀後半から20世紀前半にかけて著作家や詩人、小説家として活動しフランスの知性と称された人物です。
 私自身の話になりますがまだ海上自衛官だった20歳の冬に、このポール・ヴァレリーが1931年に発したある警句を目にして大変衝撃を受けました。そしてその衝撃が、ついには政治の道を志す一因となりました。まさに私の人生の一部を決定したと言っても過言ではない人物です。そんなポール・ヴァレリーの引用から始まる章ですから、読むのも力が入りました。
 話が脱線しましたが、この章では縄文人の死生観について論じています。ここで「再生」の概念が重要になってきます。
 私たち現代人の死生観において重要な(おそらく最大の)内在的論理は「死の回避」です。
 死は自己の消滅を意味し、これを回避することに大きな努力を傾けてきました。不老不死などは目指すべきゴールといったところでしょう。ところがいつまでたっても、うまく死を回避できた者が現れない、どうも死は不可避なようだ、と皆が薄々感づき始めたところで、死後の救済をスローガンにぶち上げた教えを唱える人物が現れた。世間の人々はその教えにすがり死への真正面から捉えなくてもよくなり、その恐怖を和らげることができる、という何ともいえない社会のシステムができあがり、現在ではそれを宗教と呼ぶようになりました。
 宗教システムは比較的うまく機能しているようですが、死の回避そのものについてなんの具体的解決策を示してはいません。ですから学問や科学の名の下に死の回避の努力は続けられ、既得権益と化した宗教の一部との衝突すら起きています。
 しかし、死と再生がリンクしている世界なら死をことさらに恐怖する必要はありません。死は消滅を意味しないからです。
 我々現代人にとっては、「生の終焉」としての「死」があるため、「生」「死」は対立する概念になりますが、縄文人にとって「死」が消滅ではなく「再生」の始まりを意味するのであれば、「死」「生」と対立するものではなくなり、つまり「生と死」ではなく「生」のプロセスのひとつとして「死」があることになるのではないでしょうか。
 こうなると縄文人の「死生観」という言葉すらあやしいものになってきますが、この方向に議論するとだんだんと意味論的になってくるので、死生観という言葉でここは良いことにします。
 再生について論じられたところで、そのためのカギとなるのが「子宮」です。子宮から誕生した生ける人間は、子宮に帰ることで再生のプロセスに入るという考え方です。そして実にたくさんの土偶や土器に、子宮のシンボリズムがあり、民俗学や神話学の成果もこれらを裏付けていると大島先生は論じています。
 さらに他の章でも多少触れられていましたが、この第7章からエピローグにかけて縄文人の死生観と古い神道との共通点についても論じられています。つまり、子宮から出てくるためには産道を通り抜けるわけですが、神社もその神域に入るために鳥居をくぐります。この「通り抜ける」とか「くぐり抜ける」という様式に共通点を見出しているわけです。
 ところで、私はあえて「神域」つまり神の領域という言葉を使いました。縄文に神がいるのかという話になりそうですが、ここでは前出の死生観の意味論と同じく、宗教上の神ではなくこの世ではない世界くらいに解釈して下さい。
 子宮から産道をくぐり抜けてこの世界に生者として現れ、いずれは死者となって再生のために子宮にもどると考える縄文人にとって、自己と世界、その「内」「外」をどう捉えていたのでしょうか。
 私たち現代人は、自らの皮膚の内側を「内」、皮膚の外側を「外」と認識しています。皮膚が肉体と外部の世界を分ける境界であり、自己は皮膚の内側にあると考えます。皮膚を含めたその内側は肉体そのものですから、その肉体が滅ぶことはただちに自己の消滅につながります。死を恐れるのは当然です。
 しかし、「内」が肉体ではなく再生のための領域であるならばどうでしょうか。その領域が子宮であり、またはそれに見立てた神域(あるいは再生領域)であればどうでしょうか。そうなると自己とは「内」にあるのでしょうか、それとも再生領域の「外」にあるのでしょうか。
 生まれてくる者も死に行く者も、すべての人間は再生領域から出てきて再生領域に帰るならば、たくさんの人々が再生を待っている領域が「内」で、そこから生まれ出てきてしばらくの間、ひとりでひとつの肉体を使って生きてる「私」というものは「外」にいると感じるのではないでしょうか。
 バカな妄想と一笑に付されるかもしれませんが、本書の第1章で述べられている「融即律」についてあわせて考えてみると少しは面白いかなと思ったりします。

 最後にもうひとつ、谷川俊太郎の詩を引用して終わります。

「からだ」

からだ―うちなる暗がり
それが私
ただひとりの

そよぐ繊毛の林
うごめく胃壁の井戸
ほとばしる血液の運河

からだ―闇に浮かぶ未知の惑星
それがあなた
私にほほえむ

いのちはひそんでいる
たったひとつの分子にも

だがみつめてもみつめても
秘密は見えない

見いだすのはいつも私たち自身の
驚きと畏れの……よろこび

そんなにも小さなかたちの
そんなにもかすかな動き

その爆発の巨大なとどろきを
誰ひとり聞きとることができない

いのちの静けさは深い
死の沈黙よりも

とおくけだものにつらなるもの
さらにとおく海と稲妻に
星くずにつらなるもの

くりかえす死のはての今日に
よみがえりやまぬもの

からだ
タグ:読書 縄文
posted by しらいし at 04:14| Comment(2) | TrackBack(0) | 自然・科学・歴史

2016年07月10日

参院選について、北海道新聞の取材を受けました

 先日、今回の参議院選挙での争点について北海道新聞から取材を受けました。なんで私に?とは思いましたが、取材の内容が安全保障関連法制(安保関連法)についてだったので、元海上自衛官の市議会議員というヤツがネタとしてちょうどよかったのかもしれません。
 記事そのものについては、7月6日の朝刊に載っていますのでそちらをご覧頂きたく思いますが、記事中では安保法案について賛成の立場でコメントが載っていました。
 記事を読んだ印象としては、こんなこと話したかな?と思う点もありますが、そもそも短いコメントにまとめなくてはならない記事中で話した真意を間違いなく捉えて欲しいというのも無理があります。そこで、記事について少々補足をしたいと思います。

「米軍は実戦経験のない自衛隊が前線まで助けに来ることを期待していない」
 記者の問いかけは、集団的自衛権容認駆けつけ警護を混同したところがありましたので、分けて答えました。
 ひとくちに米軍と一緒に行動する、言ってもPKFなどでの活動もあれば、同盟国としての軍事行動もあり区別して考える必要があります。記者は「駆けつけ警護が可能になると自衛隊のリスクが増す」と言っていましたので「リスクの増加はない」と答えました。ただし、リスクがないという意味ではなく元々リスクはあって今回の法制によってそれが増えたりはしないという意味です。
 なぜかというと、法制度の穴があって安全保障上に問題がある、といっても我が国の法制度を細かく研究してその隙を突いてくるには、それなりの組織力があってはじめてできることで、いうなれば大国の正規軍があてはまります。
 国連平和維持活動が行われているような地域で、そんな正規軍が敵対行動をとる状況はちょっと考えにくく、小規模なゲリラグループや部族集団などが我が国の法制度を熟視して攻撃を加えてくることは、いささか想定しづらいものがあります。それらの武装グループから見て、自衛隊の姿は以前から何も変わるものではなく、敵だと思えば攻撃を検討するでしょうし、味方や中立の第三者と思えばそれなりの対応をとるでしょう。これまではリスクに対して受け身だったものが駆けつけ警護が可能になる分、リスクを選べるようにもなるのでかえって安全を確保しやすくなるかもしれません。
 そもそも駆けつけ警護は、安保関連法のうちの国際連合平和維持活動等に対する協力に関する法律(国際平和協力法)によって定められるもので、国連の平和維持活動における武器使用についてのことなので、大規模な戦闘は考えにくく、また駆けつけ警護の対象も米軍とは限らず、中国軍やロシア軍というケースも理論上はあり得ます。ただし、現在想定している主な対象は同じ自衛隊部隊や現地で活動している邦人の文民や民間人などで、元々自衛能力のある各国の派遣軍部隊は想定されていません。
 もし攻撃を受けている米軍の元へ駆けつけ警護に向かうケースを想定するとしたら、小規模で装備も少ない、または非武装の米軍部隊が多数の武装したゲリラやテロリストなどに攻撃されている場合などでしょうか。いずれにしても考えにくいパターンになります。
 次に駆けつけ警護の話ではなく、集団的自衛権を行使して米軍を助けに行くというケースですが、そもそも論として集団的自衛権は自衛権という権利であって義務ではありませんので、米軍は要請することはできますが応ずるかどうかはこちらの判断になります。
 さらにコメントにあったとおり、米軍が戦争と呼べるほどの大規模な戦闘を行っている場合ですが、まともな軍の指揮官ならいくら練度か高くても実戦経験のない自衛隊に、自らの部隊の脇を固めて欲しいとは考えないでしょう。戦闘では戦線を構成する部隊のうち弱いところから崩壊してしまうものです。両翼を任せて不安になるくらいなら単独で戦った方がマシだと考えるでしょう。

「日米同盟を強固にするために自衛隊が米軍を守る姿勢を示すことは重要」
 自衛隊が米軍を守る姿勢を示すことは重要・・・、という話をした覚えはないのですが、そもそも軍事同盟とは集団的自衛権のひとつの姿であるので、今さら容認とか持っていても行使せずとか言われてもちょっとな、という感じです。
 集団的自衛権の行使は憲法違反だという意見がありますが、その日本国憲法の前文と国連憲章は整合性があり、そして国連憲章では全ての国家に個別的自衛権と集団的自衛権を認めています。それどころか、集団的自衛権を加盟各国が行使することが国連による平和維持の前提となっています。なので、これを否定すること自体が憲法違反であると思います。以前の記事(我が国の集団的自衛権というお題目は勘違いの円舞)で詳しく書いていますのでそちらも参照して下さい。
 私としては、我が国が国連による平和維持を国是としている以上、集団的自衛権の行使は当然であり、また世界の恒久平和を目指すための前提として我が国の安全と生存を担保しなければならず、そのための重要な関係のひとつが日米同盟であると考えるので、日米同盟の堅持は大切だ、という話をしたと思うのですが、何か言い方が下手だったのでしょうね。

「自衛官も戦争はしたくない」
 したくないというよりも、武器の本当の破壊力を知る自衛官だからこそ慎重である、任務とあればやるが、それだけによくよく考えて扱って欲しい、という話をしました。戦争なんてやらずに済むに越したことはありません。戦争はいけない、なんて当たり前のことなのです。

「不用意な武力衝突を防ぐため、抑止力を高める法整備と、経済的な結びつきの強化は必要だ」
 法整備の部分は、過去のブログ記事で繰り返し述べていますのでここでは省略しますが、経済的な結びつきの強化、の部分について説明します。
 このままの文章の流れだと、米国との結びつきの強化ともとれるような曖昧さがありますが、私が答えたのはそれほど友好的ではない、または敵対的な国家との結びつきのことです。
 ジエイムズ・F・ダニガンの名著「新・戦争のテクノロジー」平和を保つゆとりはあるか、という問いかけがあります。平和は戦争より安くつくが、考えられているほど安くはない。そして、平和は戦争よりも国家の経済を破綻させることがある。とも述べています。
 平和を維持したければ、経済を良好に保つことが必要であり、経済が破綻し行き詰まると、これを打開しようとして次第に戦争に傾きます。まさに、平和を買い支えていかなければならないのです。
 さらにいえば、これを自国のみならず世界各国にやってもらう必要があります。歴史をひもとくと、経済格差とそれを埋める手段が戦争しか見当たらないときに、戦争の危機が高まります。自国の経済力が低下し友好的ではない近隣の国が高い経済成長をしていると、自信喪失から険悪な関係になり、ナショナリズムが刺激されやすくなります。
 しかし互いに経済的な結びつきが大きいと、利害関係が複雑になり武力による解決は損失の方が大きくなります。互いの感情が悪化しても、話し合いで解決するしか道はなくなるのです。商売人はケンカしないということです。
 ですから、安全保障を考えるときに、もっとも重要な要素は経済なのです。戦争を回避したければ、自国のみならず互いに平和を買い支えていかなくてはならないのです。

 最後に、今回の参院選についですが、安保関連法については野党は争点にしていますが、世間はそれほど関心があるように感じられません。どちらかというと経済問題の方に関心が強いように見えますが、先に述べたように経済問題は安全保障にも大きな影響をおよぼすので、大きな視点で各政党・各候補者の主張に耳を傾けてみるのがよいと思います。

 皆さんの投じる一票が、さざ波が集まってついには浜辺の姿を変えるように、ほんの少しずつ政治を動かし大きな流れになるのです。
posted by しらいし at 03:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 政治・行政

2016年05月30日

「さよならパヨク」を読んでみました

 以前アップした記事SEALDsの本を読んでみました「SEALDs 民主主義ってこれだ!」を読んだ感想を述べてみましたが、今回は千葉麗子氏の「さよならパヨク(青林堂)」という本をちょいと読んでみました。
 なぜこの本を読んでみたのかと申しますと、理由のひとつはその前に読んでいたのがE・H・カー著「歴史とは何か(岩波新書)」、大島直行著「縄文人の世界観(国書刊行会)」、バルザック著「谷間の百合(新潮文庫)」など、知的な好奇心を大きく揺さぶられる本が続いたため、これはこれで大変至福なのですがたまに休憩がてらカンタンな本も読んでみたいな、と思ったりしたところにこの本のタイトルが目に飛び込んできたこと、もうひとつの理由はアイドル千葉麗子をちょいと気に入っていた時期(若かりし頃です)があり、心の敷居が低かったからですね。結果としてSEALDsの本とバランスをとることになりました。

内容は暴露話かつシンプル
 本書では、千葉麗子氏が反原発の志から左翼的運動(本書中ではパヨクと表現されています)に参加し、後に決別するまでのいきさつと、現在取り組んでいる愛国運動について赤裸々に語られています。文章そのものはですます調の口語的な文体で、本の厚さのわりには文章の量も少ないのであっという間に読み終わります。
 全体的に暴露話が多いですが、著名人を除いてイニシャルで表現され、また個人攻撃的表現も最小限に抑えられているように感じられました。また表紙のイラストは、はすみとしこ氏の手による千葉麗子氏がピンクの旭日旗をあしらったワンピースを着て日章旗を手にしているというものですが、品のないアジテーション的なイラストだなという印象を受けました(元海上自衛官として、あまりつまらない事に旭日旗を使ってほしくないな、という思いがあります)

ボーンアゲインクリスチャン的な?
 読んでいて少し気になった点ですが、千葉麗子氏は当初純粋な思いから反原発運動に参加し、その運動が次第に変貌していき戸惑いをおぼえ、様々な事に気付き、ついには決別するのですが、本書後半で後に身を投じている愛国運動と本書の最後に皇国再生のためのお願いと称して語られている内容について、パヨクと称した本書前半の内容とのギャップが激しいところです。読んでいて極端から極端に走る、まるでボーンアゲインクリスチャンの告白みたいだな、と感じたわけです。本人は洗脳から目覚めた的なことを語られていますが、その割には愛国運動にのめり込んでいるだけにも感じられます。後ほど詳しく述べますが、皇国再生のためのお願いというくだりについては、単なる受け売りではないかなと感じました。もっとご自身の考察も交えていただきたかったと思います。
 また、愛国という言葉そのものにもちょっと違和感を感じています。というのも、私自身は愛国心教育というものにあまり感心していないというか、愛国心という言葉はことさらに口に出して教え込むものではなく、隣人愛や郷土愛などの自然な発展として醸成するものだと考えているからです。
 自己愛だけでなく、身近な人も大切に思えば、それらをとりまく郷土・地域を大切に感じ、郷土のためにひいては国を守り良くしたいと考える。この順序が逆になってしまうと、つまらない国粋主義に陥ってしまうと思うのです。
 千葉麗子氏のことは、結構知的な女性だと思っていたのですが、案外そうでもないところもあるんだなと、妙に感心してしまいました。

もっと深く考えてほしい
 我が国は基本的人権のひとつとして表現の自由が保証されていますから、皇国を再生したいとか、外務官僚や裁判官や教職員は自衛隊を1年間経験した者だけにしろとか、その自衛隊には精神教育が必要だとか、いろいろ主張されることは結構ですが、もう少し深く学び考えていただきたいと思います。
 まず皇国という考え方についてですが、私自身は今上天皇と皇祖皇宗、そしてそれら天皇をいただく日本という国を誇りに思っています。しかし、皇国という国体をはたして陛下はお望みになっているのでしょうか?
 もし陛下が不要だと思われているのであれば、それについていたずらに騒ぎ立てないことも臣下の者としてのありようだと思います。
 それから、外務官僚などを自衛隊経験者でなんて発想は、ちょっと古くさいしムダが多いのではないでしょうか。1ヶ月くらい自衛隊で研修してちょっと体験してこいというくらいならまだ理解できますが、自衛官として1年程度勤務したくらいで軍事力のなんたるかを知るということは難しいのではないでしょうか。なぜなら、その1年間で経験することの大半は一自衛官、つまり兵士としての経験であり、それはそれでムダではありませんが専門性としての軍事理解につながるのかどうかは何とも言えません。また、その兵士としての経験そのものが大切だという考え方なら、反対に1年程度ではたかが知れていると言わざるを得ません。私自身も任務の中で(ちょっとオーバーですが)死を覚悟したことが二度ほどありましたが、いずれも入隊後1年以内の経験ではありません。
 自衛隊には精神教育が必要との主張については、それはどんな精神についてなのでしょうか、と問いたいと思います。もし、戦前の戦陣訓や大和魂のようなものであれば、そんなのはよそでやってもらいたいと思います。
 自分の経験から申しますと自衛官に必要な精神とは、リアリティや合理的精神に基づいた強靱な精神です。気合いや根性といったものはもちろん大切です。しかし、私たちが使っていた個人用小火器である小銃は直径7.62mmの弾丸を音速の2倍の速度で発射し200ヤード先にある厚さ15cmくらいの木材を紙のようにパツッ、パツッと抜いていきました。戦車の砲弾などは音速の5倍で飛翔し、装甲に斜めに当たっても弾くのではなく液体にめり込むように侵轍したりします。護衛艦の主砲の命中精度も極めて高く、揺れる海の上でも標的に当てるだけではなく標的のどこに当てるのかということまで選べます。テポドンの迎撃にそなえて展開されるイージス艦のSM-3というミサイルにいたっては、上空200km以上を音速の10倍近い速度で飛翔している数メートル程度のサイズの再突入体に直撃できる性能を持っています。
 こんな非人間的なほど強力な武器を用いる戦場において、気合いや根性、大和魂とやらで防げる攻撃はありません。強い精神力は、不可能を可能にするためにあるのではなく、もはや人間がついて行けないような戦場や任務にあっても冷静さを失わず、任務の達成と生存の可能性を最大限にするために必要なのです。軍事とはリアリティや合理性が絶対必要である、冷徹な科学でもあるのです。

靖国神社だけではない
 本書の後半に何度か靖国神社の参拝について語られています。我が国のために戦火の中に散っていった方々の御霊に哀悼の意を表すこと、このこと自体はとても尊いことと思います。が、この手の人々からあまり聞くことがないの場所が千鳥ヶ淵戦没者墓苑です。もしかしたら靖国神社と等しく千鳥ヶ淵戦没者墓苑にも参拝されているのかもしれませんが、その割にはあまり話を聞くことがありません。
 愛国心をお持ちと称する右側っぽい皆さんが本当に哀悼の心をお持ちならば、千鳥ヶ淵の方にも同じだけ足を運んで、戦没者の方々に思いをはせていただきたいと切に願います。


 最後に、今回読んだ「さよならパヨク」「SEALDs 民主主義ってこれだ!」の両方を通して感じたことは、議論を単純化させる昨今の世相です。今まで何度か述べていますが、単純化され分かり易くなった論点は、けっして問題そのものの理解ではないということです。分かり易くするということは問題のディティールを削ることであり、理解の入り口ではあっても理解そのものではないのです。私たちの社会に存在する問題はどれも複雑です。そして複雑な問題を理解しようとすれば、最終的には複雑なままそれを受け入れなければなりません。
 ある社会問題について、右だ左だと選択肢を二者択一にしてしまう行為は乱暴な処理であり、本当にその問題を理解し解決したいのであればあらゆる視点と矛盾を受け入れることが大切なのです。
posted by しらいし at 02:29| Comment(1) | TrackBack(0) | 政治・行政

2016年04月27日

「縄文人の世界観」の世界観

 日頃より敬愛している異色の考古学者である大島直行先生が、先日2冊目の本となる「縄文人の世界観」を上梓されました。
 本の内容は、タイトル通り縄文人の世界観というテーマについてシンボリズム(象徴体系)レトリック(修辞法)という視点から読み解いていくという、大変意欲的なものです。私もさっそく取り寄せて読んでみましたが、いろいろと考えさせられるものがありました。私見も大幅に交えて、以下にいろいろと述べたいと思います。

一見して読みやすいが
 まず、文章そのものは平易に書かれており、流れるように読み進めることができます。が、それで理解しやすいと思うのは早計です。執筆するにあたってのバックボーンとなる識見は膨大であることが行間から読み取れ、本書について十分に理解するためには他の本やテキストを合わせて読まなくてはならないでしょう。しかし、ある本を読むために他の本を読むなんてことは基本ですので、こんな程度で怯んではいけません。最低限、前著である「月と蛇と縄文人」と、大島先生を含めた6名の講師による講座記録集である「縄文人はどこからきたか?」の2冊は先に読んでおくことをお勧めします。

リアルな縄文人
 本書で著されている大きな視点のひとつは、現代社会が重んじる合理性と縄文人にとってのそれは違うというものです。これまでの考古学者達は発掘された遺物や遺跡を合理性(特に経済合理性)の視点で捉えようしていた点に、本書では警鐘を鳴らしています。
 たとえば、縄文土器や土偶はなぜ奇妙奇天烈な形状なのか、竪穴住居は本当に住居だったのか、貝塚は貝殻というゴミの処分場だったのか、といった具合に次々と疑問を投げかけます。つまり、縄文土器は生活のための什器ではなく祭祀具だったのではないか、竪穴住居が住居であったという根拠は何か、貝殻が積み上がっているからゴミ処分場という解釈は現代社会的であっておかしいのではないかと考えるわけです。
 そこから、なぜ縄文人はそれらのモノや施設を作ったのか、縄文人は何を求め続け、どのような思想を持っていたのか、と考えを進めそれを解き明かすためにシンボリズムとレトリックという視点をもって縄文土器や土偶、遺跡などを読み解きそれを生み出した心性を捉えようとしています。
 縄文時代とその文化・社会について、文献や記録などは残っていません。ですから縄文人の心性を論じるなど、空理空論であると断じる方々も多くおられると思います。しかし、縄文人は現代社会に生きる人々でも、つい最近まで存命だった人々でもなく、まさに弥生時代に先立ち約1万年も続いた縄文時代に生きた人々であり、その心性を科学的に読み解こうとする挑戦は、その時代・その世界に生きるリアルな人間として縄文人を捉えようとしていることに他ならないと思います。

合理性という幻想
 私たちが生きる現代社会は、科学的・論理的な合理性というものを重視して様々な発明や工夫を重ね「進歩」していくと考えられています。そのためか、縄文に限らず過去の遺物や遺跡についても経済的合理性から読み解こうとする傾向があります。そこには、常にヒトや社会は進歩発展するという大前提となる考え方が働きます。総論的にはそうかもしれませんが、進歩というものの意味や方向はその時代や世界の持つ思想により異なるはずです。
 本書では、縄文人の目指した方向は「再生」であると述べています。それは私たち現代人の持つ方向性とは異なるものです。ここは大変ダイナミックな展開になるので、ぜひ本を手にとって直接読んでいただきたいところです。
 ところで少々脱線しますが、私には科学的進歩を大いに誇る現代人とて、それほど合理的であるようには見えません。
 いささかどぎつい例になりますが、国会や地方議会などは国民・住民の代表として選ばれた議員によって構成され、さまざまなことをそこで議論し議決しますが、その内容について時折、くだらないとか馬鹿げていると感じることもあるのではないでしょうか。しかし、議員達は歳末福引きで議席が当たったとか、誰かから分けてもらったとか、早い者勝ちで手を挙げた順番で当選したわけではありません。有権者の方々が選挙で投票して選んだ面々なのです。適任と思われる候補者を大勢で選出したのですから、合理的・論理的で適切な仕事をテキパキやりそうですが、残念なことに現実はそうじゃない方もいらっしゃいます。そして、提案される議案についても形式的でさほど中身がないものやメンツや都合で出てきたようなものも時々あり、それらの組み合わせによっては実に非合理的な展開が待ってます。
 また議会だけでなく社会全体も同様で、どう考えてもまがい物としか思えないような代物やサービスに多額のお金を支払ってしまったり、少子化を懸念する人々が保育所の建設に反対してみたり、景気対策を政府に訴えながら自身の消費を最小化しようとする(合成の誤謬と言います)など、非合理的な行動など枚挙にいとまがありません。
 つまり、元々人間なんて「わかっちゃいるけどやめられない」非合理的な存在であり、だからこそ合理的でありたいという指向も持ち合わせているということなのです。「三歩進んで二歩下がる」と歌った人もいましたが、その二歩下がることをことさら否定せずに、トータルで一歩進んだんだから良かったじゃないか、と日々納得すればよいのです。

縄文人は定住していたのか
 昨今、縄文文化は農耕せず狩猟採集だったのにもかかわらず、定住し集落を形成し、1万年もの長きにわたって維持するという人類史上、他に例を見ない文化である、という見方が出てきています。私も最近までその見方に同意していました。が、本書では縄文のムラは、いわゆる都市に発展するという意味での集落ではなく、もっと違った集合原理によっていたのではないか、という疑問を投げかけています。
 現代人である私たちは、社会というものの構造は下記のように個人を最小単位として階層的に構成されていると考えます。

個人<家族<集落<市町村<都道府県<国<世界

 しかし、大島先生はそもそも個人という概念はあったのか、という考えをお持ちのようです。この考えは一見、荒唐無稽に感じられるかもしれませんが、現代につながる私たちの社会においても、個人という概念は時代とともに大きく変化しており、私たちが持つ個人とか自己という概念は案外新しいものなのです。
 さて、縄文人は定住していたのかという問題ですが、ある遺跡から出土した土器類のうち、その土地で作られたと思われるものは全体の2割程度だったという話がありました。残りは他の土地から持ち込まれたということになりますが、これをもって現代人である考古学者達は「縄文時代にすでに交易があった!」と解釈します(私も小躍りしました)。ヒスイなども大変人気があった様子で、現在の新潟県から産出したものが北海道でも出土しています。
 ところが、大島先生はこれを交易と捉えず、単に持って歩いていたのではないかと考えている様子です。つまり、縄文人は定住していたのではなく小集団が移動しながら生活していたのではないかということです。この考え方は、おそらく今の考古学会から大きな反発を受けるものと思われます。せっかく「農耕じゃないのに定住している!」というスゴイ話になったのにそれをパーにしちゃうじゃないか、というわけです。
 しかし私は、「農耕じゃないのに定住している!しかも1万年!」なんてちっちゃい話で終わらないスゴイ仮説になるんじゃないかと考えています。

自己というモノが存在するという幻想
 自己と世界の境界が曖昧な精神の持ち主が、死を否定し再生を願う思想を持つとき、その世界観は現代人とは大きく異なるものになるでしょう。そもそも私たちにとっての死と縄文人にとっての死は、大きく異なるものかもしれません。
 私たちにとって死とは自己と肉体の終焉であり、自己というモノが消滅するという恐怖を抱いています。その恐怖から逃れるために、自己の代替として魂とか霊魂とかいう概念を考え出し、あの世に行くとか天国に行くとかいう「次の行き先」を用意して死は肉体のみであるとして肯定してきました。いわゆる宗教という救済システムです。
 縄文人が、このような自己という概念を持っていなかったとしたら、死を恐れる精神はもっと本能的な、生物として生き抜こうとする感覚だったかもしれません。
 いささか話は脱線しますが、昨年の11月に10年間一緒に暮らしてきた愛犬が亡くなりました。最後の9ヶ月ほどはガンに冒されひどい有様でしたが、しかし彼は最期まで生きることを諦めず、病の苦痛に耐えていました。
 現代においても動物は死ぬ瞬間まで生き続けようとしますが、人間だけは生きてるうちから死にたがります。大島先生は講演会において、縄文人には自殺・自死はなかったと述べていましたが、現代人と縄文人とでは生と死の意味が異なっているということなのでしょう。もしかしたら自己という概念は、システマティックな社会という構造を持ってしまったが故に生み出さざるを得なくなった、一種の幻想なのかもしれません。
 幻想にとらわれていない生と死であるならば、そして自己という幻想の殻がないのであれば、自分と周囲の人々との間は、境目のない連続した関係になることでしょう。
 「私」は自身の肉体だけに宿り閉じこもるのではなく、少しづつ薄まりながら周囲に、世界に広がって他者と混じり合っている。肉体はその「私」の一番濃い中心部に過ぎないのであれば、死とはその一番濃い部分だけが薄まり平らになることであり、溶け合い混じり合った世界のどこかに、いずれまた集まり濃い部分として「再生」される。その再生を確実にするために、効き目のありそうなことをいろいろと世代を超えて試していく。
 そんな精神を持った人々の小集団が移動生活をする世界にあって、大規模な祭祀施設を作るとすれば目的は何でしょうか。それは、再生を願う精神の緩やかな集合体の循環によって形作られた施設なのではないでしょうか。
 地球の海には海洋大循環とよばれる、表層と深海の海流がベルトコンベアのようにつながる大きな流れがあります。それは赤道付近で暖められた海水が海の表層を極地に向かって流れ、そして冷えて沈み込み深海を赤道付近に向かってゆっくりと流れていく。そしてまた暖められて表層に湧き上がってくるという巨大な循環で、その行程は数千年かかっていると考えられます。
 縄文人達の移動もシステムとして作られたのではなく、日本列島の中で自然と出来上がった大循環であったのなら、海洋大循環の湧き上がったり沈み込んだりする海域のように、循環のための継ぎ目や踊り場のような場所として形成されたのだとしたら、私たちが考えるような社会システムがなければ労働力を動員して何か大きなものを作り出すことはできない、などという考え方を葬り去ることになるのかもしれません。
 そして、進歩という変化を求め続ける現代社会のあり方は、常によろめき続ける不安定さを招くことであり、なぜ縄文文化が1万年も続いたのかという問いを続けることは、いずれ文明論の大転換につながるのかもしれません。
タグ:読書 縄文
posted by しらいし at 22:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 自然・科学・歴史

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