2021年10月28日

道南開発予算についてちょっと考察してみました

 11月19日公示、31日投開票の衆議院議員選挙もクライマックスに入っておりますが、ここ北海道第8選挙区でも与野党2人の候補が激しい選挙戦を繰り広げております。
 道南では長く野党(一時期与党)の立憲民主党(旧称 民主党とか民進党)の代議士(現職は逢坂誠二氏)が選出されており、そこに与党の元職 前田一男氏が挑戦するという構図となっています。
 両氏による討論会も開催されていますが、そのうち地元のケーブルテレビで見た討論会でいささか気になる議論があったので紹介したいと思います。
 それは与党の前田氏は「野党では開発予算を1円も引っ張ってこれない」と訴えたところで、野党の逢坂氏が「事実に反する」として反論するところです。

野党であっても予算は確保できる?
 逢坂氏のSNSなどで見かけたことがある北海道開発局の函館開発建設部の開発予算の推移(2012年から2019年)のグラフで示されている主張ですが、「2014年以降予算は右肩上がり」なので野党でも予算は増額されているという趣旨と思われます。これについておや?と思うところがありましたので、ちょいと調べてみました。
[以下のグラフはクリックすると拡大します]
chart1.png
(グラフ自体は同じデータで私が作り直しました)(単位は百万円)

確かに、2014年以降は右肩上がりなので野党の逢坂氏であってもしっかり予算は確保されている、という主張は正しいもののように見えますが、このグラフに北海道開発局全体の予算(オレンジの折れ線)を加えて推移を比べてみたのが次のグラフです。
chart2.png
 (北海道開発局全体の予算との推移を比べるため、函館の金額は左側、全体の金額は右側に示しています)

 グラフを見ると一目瞭然ですが、北海道全体の予算と函館開建予算の推移はほぼ同じです。つまり、地元の代議士は何らの影響も行使しておらず、単に全体に対する一定の割合で割り振られているだけという話です。
 しかし、それでは与党の代議士がいても同じでは?という話にもなりますね。そこで、推移を比較するグラフではなく実際の金額で並べたグラフを見てみましょう。
chart3.png

 当たり前ですが、函館開建のグラフはずっと下で推移もわからないくらいですね。道南は北海道の一部分なのですから当然です。
 ところでこの両者の棒グラフ、何倍の差があるかというと約20倍です。函館開建の予算は全体に対して約4.4%から5.2%で推移しています。

道南の開発予算は一人あたり約4割少ない
 開発予算の割り当ての根拠は人口や面積だけでなく様々な事情があるため単純ではありませんが、それでも人口で比べますと、北海道の人口約528万人に対して渡島・檜山の人口は約43万人。割合にして約8.1%です。
 つまり、8%の人々に対して5%の予算しか割り当てられていない、というお話です。本当なら現状の1.6倍の金額で人口比と同じ。平たく言えば渡島・檜山は北海道の中で冷遇されている、ということです。
 これでは地元経済が冷え込むのも当然ですね。
 では、なぜこんな状況になっているのか。ここからは私の推測ですが、やはり長らく野党の代議士しかいなかったからではないか、ということです。

道南に野党の代議士を選ぶ余裕があるのか
 北海道8区では、かれこれ4半世紀にわたって野党の代議士がほぼ当選し続けております。中選挙区の時代でしたら与野党両方いるという状態ですからよかったものの、現状の小選挙区ではどちらかが比例復活しない限り両者並び立つというわけにはいきません。となると、野党が強ければ与党の代議士はいなくなり、今日のような状況になります。
 今回の総選挙では野党は分配が先だ、という主張をしており確かに一理あるとも思いますが、それは背景となる地域経済力が大きな場合の話です。
 はたして、道南にそのような大きな経済力の余裕があるのでしょうか。なければ国から引っ張ってくればよいと野党は訴えるでしょうが、国政を率いているのは与党です。そんな野党代議士の要求をすんなり受け入れるでしょうか。

 多様な代議士によって国会を構成し、盛んに議論することは健全な議会制民主主義にとってとても大切なことです。しかし、人口減少や経済の衰退に苦しむ地方にとって、野党の代議士を選び続けることは過ぎた贅沢ではないか、これが私の結論です。
posted by しらいし at 11:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 政治・行政

2018年09月23日

「縄文人はなぜ死者を穴に埋めたのか」を読んで

 2年ほど前に大島直行先生の前著縄文人の世界観について記事を書きましたが、そう言えば今回の著作縄文人はなぜ死者を穴に埋めたのかについて考えをまとめていませんでした。そうこうするうちにNHKの番組で取り上げられたりして、おまけに記念講演までやることになったので、その講演を拝聴する前に予習として感想をまとめたいと思います。今回も私見てんこ盛りなので書いていることを鵜呑みにせずに、ちゃんと本を買って読んで下さいね。

講義が始まったぞ!
 まず本を手に取ってみて読み進めてみたところ、前著「縄文人の世界観」から大きく異なる印象を受けました。
 ですます調の丁寧で平易な文体は相変わらずですが、その内容は芸術、宗教、心理学、民俗学など多岐にわたり、それらの説明のため引用が非常に多いのが特徴です。
 読んでいて、常に頭の中を整理しつつ読み込まないと自分自身の位置を見失うような錯覚を覚えます。しかしながら、学術的なテクストとして読めばこれは当たり前のことです。
 ヨーロッパの知識人達のテクストなどでは、抽象的なキーワードとア・プリオリという決まり文句だけで話が進むことも多々あるので、引用が豊富ということは親切であるとも言えます。
 例えるなら、今までの著作は縄文についての大島仮説についてわかりやすく解説していましたが、今回はもっと濃密な講義を行っている。そんな印象です。

脳と心が生み出した迷宮
 先日、NHKの歴史秘話ヒストリアに大島先生が出演され、やはり再生や月の水、ヘビのシンボライズなどについて述べられました。本書の読了後だったこともあり、興味深く拝見しましたが、その後にこの記事を書こうと思い読み返してみました。
 本書の内容は全部で7章に分かれており、1章から3章にかけて心理学や民俗学の成果を用いながら、我が国の考古学が抱える問題点を明らかにしつつ、縄文の読み解きのための方法論を提示しています。
 4章から6章まで、土器、ムラ、家、ストーンサークルについて子宮的性格という観点からのさらなる分析を展開しています。内容としては、今までの大島先生の主張されたことや研究のための方法について、その根拠を示しつつより精緻に述べられています。そして、ここでも考古学の現状を批判しています。
 ここまで読み進めたところで、谷川俊太郎の「脳と心」という詩をふと思い出しましたので、私もマネして引用してみたいと思います。

「脳と心」

この卵型の骨の器にしまってあるものは何?
傷つきやすく狂いやすいひとつの機械?
私たちはおそるおそる分解する
私たちは不器用に修理する
どこにも保証書はない

その美しいほほえみの奥にあるものは何?
見えるものと見えないものが絡み合う魂の迷路?
私たちはおずおずと踏み込む
私たちは新しい道標を立てようとする
誰も地図はもっていない

しかもなお私たちが冒険をやめないのは何故?
際限のない自問自答に我を忘れるのは?
謎をかけるのは私たち自身の脳
謎に答えようとするのも私たち自身の脳
どこまでも問い続け・・・いつまでも答えはない

 謎を解き明かしたいという研究者達の欲求。しかし長い年月を費やして自らが組み上げた構造体から抜け出せなくなっている考古学者達。そこに異論を述べると批判し無視する。でもそれは自らを否定することになるかもしれないという漠然とした恐怖であり、極めて非論理的かつ人間的な反応とも言えます。
 そんな人間ドラマも行間から垣間見える論考であり、縄文の謎に答えようとしつつ、近代考古学史としても読めて大変面白い部分です。

よみがえりやまぬもの
 さて、最期の第7章は本書のクライマックスとも呼べる章で、縄文人はなぜ死者を穴に埋めたのか、について論じています。
 この章に限らず、本書ではすべての章の冒頭で引用文がおかれています。第1章から第6章までの引用文は、それぞれの章の内容に符合する他の研究者などのテクストからのものですが、この第7章だけはそれまでと異なり、ポール・ヴァレリーの詩を引用しています。
 ポール・ヴァレリーは19世紀後半から20世紀前半にかけて著作家や詩人、小説家として活動しフランスの知性と称された人物です。
 私自身の話になりますがまだ海上自衛官だった20歳の冬に、このポール・ヴァレリーが1931年に発したある警句を目にして大変衝撃を受けました。そしてその衝撃が、ついには政治の道を志す一因となりました。まさに私の人生の一部を決定したと言っても過言ではない人物です。そんなポール・ヴァレリーの引用から始まる章ですから、読むのも力が入りました。
 話が脱線しましたが、この章では縄文人の死生観について論じています。ここで「再生」の概念が重要になってきます。
 私たち現代人の死生観において重要な(おそらく最大の)内在的論理は「死の回避」です。
 死は自己の消滅を意味し、これを回避することに大きな努力を傾けてきました。不老不死などは目指すべきゴールといったところでしょう。ところがいつまでたっても、うまく死を回避できた者が現れない、どうも死は不可避なようだ、と皆が薄々感づき始めたところで、死後の救済をスローガンにぶち上げた教えを唱える人物が現れた。世間の人々はその教えにすがり死への真正面から捉えなくてもよくなり、その恐怖を和らげることができる、という何ともいえない社会のシステムができあがり、現在ではそれを宗教と呼ぶようになりました。
 宗教システムは比較的うまく機能しているようですが、死の回避そのものについてなんの具体的解決策を示してはいません。ですから学問や科学の名の下に死の回避の努力は続けられ、既得権益と化した宗教の一部との衝突すら起きています。
 しかし、死と再生がリンクしている世界なら死をことさらに恐怖する必要はありません。死は消滅を意味しないからです。
 我々現代人にとっては、「生の終焉」としての「死」があるため、「生」「死」は対立する概念になりますが、縄文人にとって「死」が消滅ではなく「再生」の始まりを意味するのであれば、「死」「生」と対立するものではなくなり、つまり「生と死」ではなく「生」のプロセスのひとつとして「死」があることになるのではないでしょうか。
 こうなると縄文人の「死生観」という言葉すらあやしいものになってきますが、この方向に議論するとだんだんと意味論的になってくるので、死生観という言葉でここは良いことにします。
 再生について論じられたところで、そのためのカギとなるのが「子宮」です。子宮から誕生した生ける人間は、子宮に帰ることで再生のプロセスに入るという考え方です。そして実にたくさんの土偶や土器に、子宮のシンボリズムがあり、民俗学や神話学の成果もこれらを裏付けていると大島先生は論じています。
 さらに他の章でも多少触れられていましたが、この第7章からエピローグにかけて縄文人の死生観と古い神道との共通点についても論じられています。つまり、子宮から出てくるためには産道を通り抜けるわけですが、神社もその神域に入るために鳥居をくぐります。この「通り抜ける」とか「くぐり抜ける」という様式に共通点を見出しているわけです。
 ところで、私はあえて「神域」つまり神の領域という言葉を使いました。縄文に神がいるのかという話になりそうですが、ここでは前出の死生観の意味論と同じく、宗教上の神ではなくこの世ではない世界くらいに解釈して下さい。
 子宮から産道をくぐり抜けてこの世界に生者として現れ、いずれは死者となって再生のために子宮にもどると考える縄文人にとって、自己と世界、その「内」「外」をどう捉えていたのでしょうか。
 私たち現代人は、自らの皮膚の内側を「内」、皮膚の外側を「外」と認識しています。皮膚が肉体と外部の世界を分ける境界であり、自己は皮膚の内側にあると考えます。皮膚を含めたその内側は肉体そのものですから、その肉体が滅ぶことはただちに自己の消滅につながります。死を恐れるのは当然です。
 しかし、「内」が肉体ではなく再生のための領域であるならばどうでしょうか。その領域が子宮であり、またはそれに見立てた神域(あるいは再生領域)であればどうでしょうか。そうなると自己とは「内」にあるのでしょうか、それとも再生領域の「外」にあるのでしょうか。
 生まれてくる者も死に行く者も、すべての人間は再生領域から出てきて再生領域に帰るならば、たくさんの人々が再生を待っている領域が「内」で、そこから生まれ出てきてしばらくの間、ひとりでひとつの肉体を使って生きてる「私」というものは「外」にいると感じるのではないでしょうか。
 バカな妄想と一笑に付されるかもしれませんが、本書の第1章で述べられている「融即律」についてあわせて考えてみると少しは面白いかなと思ったりします。

 最後にもうひとつ、谷川俊太郎の詩を引用して終わります。

「からだ」

からだ―うちなる暗がり
それが私
ただひとりの

そよぐ繊毛の林
うごめく胃壁の井戸
ほとばしる血液の運河

からだ―闇に浮かぶ未知の惑星
それがあなた
私にほほえむ

いのちはひそんでいる
たったひとつの分子にも

だがみつめてもみつめても
秘密は見えない

見いだすのはいつも私たち自身の
驚きと畏れの……よろこび

そんなにも小さなかたちの
そんなにもかすかな動き

その爆発の巨大なとどろきを
誰ひとり聞きとることができない

いのちの静けさは深い
死の沈黙よりも

とおくけだものにつらなるもの
さらにとおく海と稲妻に
星くずにつらなるもの

くりかえす死のはての今日に
よみがえりやまぬもの

からだ
タグ:読書 縄文
posted by しらいし at 04:14| Comment(2) | TrackBack(0) | 自然・科学・歴史

2016年07月10日

参院選について、北海道新聞の取材を受けました

 先日、今回の参議院選挙での争点について北海道新聞から取材を受けました。なんで私に?とは思いましたが、取材の内容が安全保障関連法制(安保関連法)についてだったので、元海上自衛官の市議会議員というヤツがネタとしてちょうどよかったのかもしれません。
 記事そのものについては、7月6日の朝刊に載っていますのでそちらをご覧頂きたく思いますが、記事中では安保法案について賛成の立場でコメントが載っていました。
 記事を読んだ印象としては、こんなこと話したかな?と思う点もありますが、そもそも短いコメントにまとめなくてはならない記事中で話した真意を間違いなく捉えて欲しいというのも無理があります。そこで、記事について少々補足をしたいと思います。

「米軍は実戦経験のない自衛隊が前線まで助けに来ることを期待していない」
 記者の問いかけは、集団的自衛権容認駆けつけ警護を混同したところがありましたので、分けて答えました。
 ひとくちに米軍と一緒に行動する、言ってもPKFなどでの活動もあれば、同盟国としての軍事行動もあり区別して考える必要があります。記者は「駆けつけ警護が可能になると自衛隊のリスクが増す」と言っていましたので「リスクの増加はない」と答えました。ただし、リスクがないという意味ではなく元々リスクはあって今回の法制によってそれが増えたりはしないという意味です。
 なぜかというと、法制度の穴があって安全保障上に問題がある、といっても我が国の法制度を細かく研究してその隙を突いてくるには、それなりの組織力があってはじめてできることで、いうなれば大国の正規軍があてはまります。
 国連平和維持活動が行われているような地域で、そんな正規軍が敵対行動をとる状況はちょっと考えにくく、小規模なゲリラグループや部族集団などが我が国の法制度を熟視して攻撃を加えてくることは、いささか想定しづらいものがあります。それらの武装グループから見て、自衛隊の姿は以前から何も変わるものではなく、敵だと思えば攻撃を検討するでしょうし、味方や中立の第三者と思えばそれなりの対応をとるでしょう。これまではリスクに対して受け身だったものが駆けつけ警護が可能になる分、リスクを選べるようにもなるのでかえって安全を確保しやすくなるかもしれません。
 そもそも駆けつけ警護は、安保関連法のうちの国際連合平和維持活動等に対する協力に関する法律(国際平和協力法)によって定められるもので、国連の平和維持活動における武器使用についてのことなので、大規模な戦闘は考えにくく、また駆けつけ警護の対象も米軍とは限らず、中国軍やロシア軍というケースも理論上はあり得ます。ただし、現在想定している主な対象は同じ自衛隊部隊や現地で活動している邦人の文民や民間人などで、元々自衛能力のある各国の派遣軍部隊は想定されていません。
 もし攻撃を受けている米軍の元へ駆けつけ警護に向かうケースを想定するとしたら、小規模で装備も少ない、または非武装の米軍部隊が多数の武装したゲリラやテロリストなどに攻撃されている場合などでしょうか。いずれにしても考えにくいパターンになります。
 次に駆けつけ警護の話ではなく、集団的自衛権を行使して米軍を助けに行くというケースですが、そもそも論として集団的自衛権は自衛権という権利であって義務ではありませんので、米軍は要請することはできますが応ずるかどうかはこちらの判断になります。
 さらにコメントにあったとおり、米軍が戦争と呼べるほどの大規模な戦闘を行っている場合ですが、まともな軍の指揮官ならいくら練度か高くても実戦経験のない自衛隊に、自らの部隊の脇を固めて欲しいとは考えないでしょう。戦闘では戦線を構成する部隊のうち弱いところから崩壊してしまうものです。両翼を任せて不安になるくらいなら単独で戦った方がマシだと考えるでしょう。

「日米同盟を強固にするために自衛隊が米軍を守る姿勢を示すことは重要」
 自衛隊が米軍を守る姿勢を示すことは重要・・・、という話をした覚えはないのですが、そもそも軍事同盟とは集団的自衛権のひとつの姿であるので、今さら容認とか持っていても行使せずとか言われてもちょっとな、という感じです。
 集団的自衛権の行使は憲法違反だという意見がありますが、その日本国憲法の前文と国連憲章は整合性があり、そして国連憲章では全ての国家に個別的自衛権と集団的自衛権を認めています。それどころか、集団的自衛権を加盟各国が行使することが国連による平和維持の前提となっています。なので、これを否定すること自体が憲法違反であると思います。以前の記事(我が国の集団的自衛権というお題目は勘違いの円舞)で詳しく書いていますのでそちらも参照して下さい。
 私としては、我が国が国連による平和維持を国是としている以上、集団的自衛権の行使は当然であり、また世界の恒久平和を目指すための前提として我が国の安全と生存を担保しなければならず、そのための重要な関係のひとつが日米同盟であると考えるので、日米同盟の堅持は大切だ、という話をしたと思うのですが、何か言い方が下手だったのでしょうね。

「自衛官も戦争はしたくない」
 したくないというよりも、武器の本当の破壊力を知る自衛官だからこそ慎重である、任務とあればやるが、それだけによくよく考えて扱って欲しい、という話をしました。戦争なんてやらずに済むに越したことはありません。戦争はいけない、なんて当たり前のことなのです。

「不用意な武力衝突を防ぐため、抑止力を高める法整備と、経済的な結びつきの強化は必要だ」
 法整備の部分は、過去のブログ記事で繰り返し述べていますのでここでは省略しますが、経済的な結びつきの強化、の部分について説明します。
 このままの文章の流れだと、米国との結びつきの強化ともとれるような曖昧さがありますが、私が答えたのはそれほど友好的ではない、または敵対的な国家との結びつきのことです。
 ジエイムズ・F・ダニガンの名著「新・戦争のテクノロジー」平和を保つゆとりはあるか、という問いかけがあります。平和は戦争より安くつくが、考えられているほど安くはない。そして、平和は戦争よりも国家の経済を破綻させることがある。とも述べています。
 平和を維持したければ、経済を良好に保つことが必要であり、経済が破綻し行き詰まると、これを打開しようとして次第に戦争に傾きます。まさに、平和を買い支えていかなければならないのです。
 さらにいえば、これを自国のみならず世界各国にやってもらう必要があります。歴史をひもとくと、経済格差とそれを埋める手段が戦争しか見当たらないときに、戦争の危機が高まります。自国の経済力が低下し友好的ではない近隣の国が高い経済成長をしていると、自信喪失から険悪な関係になり、ナショナリズムが刺激されやすくなります。
 しかし互いに経済的な結びつきが大きいと、利害関係が複雑になり武力による解決は損失の方が大きくなります。互いの感情が悪化しても、話し合いで解決するしか道はなくなるのです。商売人はケンカしないということです。
 ですから、安全保障を考えるときに、もっとも重要な要素は経済なのです。戦争を回避したければ、自国のみならず互いに平和を買い支えていかなくてはならないのです。

 最後に、今回の参院選についですが、安保関連法については野党は争点にしていますが、世間はそれほど関心があるように感じられません。どちらかというと経済問題の方に関心が強いように見えますが、先に述べたように経済問題は安全保障にも大きな影響をおよぼすので、大きな視点で各政党・各候補者の主張に耳を傾けてみるのがよいと思います。

 皆さんの投じる一票が、さざ波が集まってついには浜辺の姿を変えるように、ほんの少しずつ政治を動かし大きな流れになるのです。
posted by しらいし at 03:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 政治・行政

2016年05月30日

「さよならパヨク」を読んでみました

 以前アップした記事SEALDsの本を読んでみました「SEALDs 民主主義ってこれだ!」を読んだ感想を述べてみましたが、今回は千葉麗子氏の「さよならパヨク(青林堂)」という本をちょいと読んでみました。
 なぜこの本を読んでみたのかと申しますと、理由のひとつはその前に読んでいたのがE・H・カー著「歴史とは何か(岩波新書)」、大島直行著「縄文人の世界観(国書刊行会)」、バルザック著「谷間の百合(新潮文庫)」など、知的な好奇心を大きく揺さぶられる本が続いたため、これはこれで大変至福なのですがたまに休憩がてらカンタンな本も読んでみたいな、と思ったりしたところにこの本のタイトルが目に飛び込んできたこと、もうひとつの理由はアイドル千葉麗子をちょいと気に入っていた時期(若かりし頃です)があり、心の敷居が低かったからですね。結果としてSEALDsの本とバランスをとることになりました。

内容は暴露話かつシンプル
 本書では、千葉麗子氏が反原発の志から左翼的運動(本書中ではパヨクと表現されています)に参加し、後に決別するまでのいきさつと、現在取り組んでいる愛国運動について赤裸々に語られています。文章そのものはですます調の口語的な文体で、本の厚さのわりには文章の量も少ないのであっという間に読み終わります。
 全体的に暴露話が多いですが、著名人を除いてイニシャルで表現され、また個人攻撃的表現も最小限に抑えられているように感じられました。また表紙のイラストは、はすみとしこ氏の手による千葉麗子氏がピンクの旭日旗をあしらったワンピースを着て日章旗を手にしているというものですが、品のないアジテーション的なイラストだなという印象を受けました(元海上自衛官として、あまりつまらない事に旭日旗を使ってほしくないな、という思いがあります)

ボーンアゲインクリスチャン的な?
 読んでいて少し気になった点ですが、千葉麗子氏は当初純粋な思いから反原発運動に参加し、その運動が次第に変貌していき戸惑いをおぼえ、様々な事に気付き、ついには決別するのですが、本書後半で後に身を投じている愛国運動と本書の最後に皇国再生のためのお願いと称して語られている内容について、パヨクと称した本書前半の内容とのギャップが激しいところです。読んでいて極端から極端に走る、まるでボーンアゲインクリスチャンの告白みたいだな、と感じたわけです。本人は洗脳から目覚めた的なことを語られていますが、その割には愛国運動にのめり込んでいるだけにも感じられます。後ほど詳しく述べますが、皇国再生のためのお願いというくだりについては、単なる受け売りではないかなと感じました。もっとご自身の考察も交えていただきたかったと思います。
 また、愛国という言葉そのものにもちょっと違和感を感じています。というのも、私自身は愛国心教育というものにあまり感心していないというか、愛国心という言葉はことさらに口に出して教え込むものではなく、隣人愛や郷土愛などの自然な発展として醸成するものだと考えているからです。
 自己愛だけでなく、身近な人も大切に思えば、それらをとりまく郷土・地域を大切に感じ、郷土のためにひいては国を守り良くしたいと考える。この順序が逆になってしまうと、つまらない国粋主義に陥ってしまうと思うのです。
 千葉麗子氏のことは、結構知的な女性だと思っていたのですが、案外そうでもないところもあるんだなと、妙に感心してしまいました。

もっと深く考えてほしい
 我が国は基本的人権のひとつとして表現の自由が保証されていますから、皇国を再生したいとか、外務官僚や裁判官や教職員は自衛隊を1年間経験した者だけにしろとか、その自衛隊には精神教育が必要だとか、いろいろ主張されることは結構ですが、もう少し深く学び考えていただきたいと思います。
 まず皇国という考え方についてですが、私自身は今上天皇と皇祖皇宗、そしてそれら天皇をいただく日本という国を誇りに思っています。しかし、皇国という国体をはたして陛下はお望みになっているのでしょうか?
 もし陛下が不要だと思われているのであれば、それについていたずらに騒ぎ立てないことも臣下の者としてのありようだと思います。
 それから、外務官僚などを自衛隊経験者でなんて発想は、ちょっと古くさいしムダが多いのではないでしょうか。1ヶ月くらい自衛隊で研修してちょっと体験してこいというくらいならまだ理解できますが、自衛官として1年程度勤務したくらいで軍事力のなんたるかを知るということは難しいのではないでしょうか。なぜなら、その1年間で経験することの大半は一自衛官、つまり兵士としての経験であり、それはそれでムダではありませんが専門性としての軍事理解につながるのかどうかは何とも言えません。また、その兵士としての経験そのものが大切だという考え方なら、反対に1年程度ではたかが知れていると言わざるを得ません。私自身も任務の中で(ちょっとオーバーですが)死を覚悟したことが二度ほどありましたが、いずれも入隊後1年以内の経験ではありません。
 自衛隊には精神教育が必要との主張については、それはどんな精神についてなのでしょうか、と問いたいと思います。もし、戦前の戦陣訓や大和魂のようなものであれば、そんなのはよそでやってもらいたいと思います。
 自分の経験から申しますと自衛官に必要な精神とは、リアリティや合理的精神に基づいた強靱な精神です。気合いや根性といったものはもちろん大切です。しかし、私たちが使っていた個人用小火器である小銃は直径7.62mmの弾丸を音速の2倍の速度で発射し200ヤード先にある厚さ15cmくらいの木材を紙のようにパツッ、パツッと抜いていきました。戦車の砲弾などは音速の5倍で飛翔し、装甲に斜めに当たっても弾くのではなく液体にめり込むように侵轍したりします。護衛艦の主砲の命中精度も極めて高く、揺れる海の上でも標的に当てるだけではなく標的のどこに当てるのかということまで選べます。テポドンの迎撃にそなえて展開されるイージス艦のSM-3というミサイルにいたっては、上空200km以上を音速の10倍近い速度で飛翔している数メートル程度のサイズの再突入体に直撃できる性能を持っています。
 こんな非人間的なほど強力な武器を用いる戦場において、気合いや根性、大和魂とやらで防げる攻撃はありません。強い精神力は、不可能を可能にするためにあるのではなく、もはや人間がついて行けないような戦場や任務にあっても冷静さを失わず、任務の達成と生存の可能性を最大限にするために必要なのです。軍事とはリアリティや合理性が絶対必要である、冷徹な科学でもあるのです。

靖国神社だけではない
 本書の後半に何度か靖国神社の参拝について語られています。我が国のために戦火の中に散っていった方々の御霊に哀悼の意を表すこと、このこと自体はとても尊いことと思います。が、この手の人々からあまり聞くことがないの場所が千鳥ヶ淵戦没者墓苑です。もしかしたら靖国神社と等しく千鳥ヶ淵戦没者墓苑にも参拝されているのかもしれませんが、その割にはあまり話を聞くことがありません。
 愛国心をお持ちと称する右側っぽい皆さんが本当に哀悼の心をお持ちならば、千鳥ヶ淵の方にも同じだけ足を運んで、戦没者の方々に思いをはせていただきたいと切に願います。


 最後に、今回読んだ「さよならパヨク」「SEALDs 民主主義ってこれだ!」の両方を通して感じたことは、議論を単純化させる昨今の世相です。今まで何度か述べていますが、単純化され分かり易くなった論点は、けっして問題そのものの理解ではないということです。分かり易くするということは問題のディティールを削ることであり、理解の入り口ではあっても理解そのものではないのです。私たちの社会に存在する問題はどれも複雑です。そして複雑な問題を理解しようとすれば、最終的には複雑なままそれを受け入れなければなりません。
 ある社会問題について、右だ左だと選択肢を二者択一にしてしまう行為は乱暴な処理であり、本当にその問題を理解し解決したいのであればあらゆる視点と矛盾を受け入れることが大切なのです。
posted by しらいし at 02:29| Comment(1) | TrackBack(0) | 政治・行政

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