2年ほど前に
大島直行先生の前著
「縄文人の世界観」について記事を書きましたが、そう言えば今回の著作
「縄文人はなぜ死者を穴に埋めたのか」について考えをまとめていませんでした。そうこうするうちにNHKの番組で取り上げられたりして、おまけに記念講演までやることになったので、その講演を拝聴する前に予習として感想をまとめたいと思います。今回も私見てんこ盛りなので書いていることを鵜呑みにせずに、ちゃんと本を買って読んで下さいね。
■講義が始まったぞ! まず本を手に取ってみて読み進めてみたところ、前著
「縄文人の世界観」から大きく異なる印象を受けました。
ですます調の丁寧で平易な文体は相変わらずですが、その内容は芸術、宗教、心理学、民俗学など多岐にわたり、それらの説明のため引用が非常に多いのが特徴です。
読んでいて、常に頭の中を整理しつつ読み込まないと自分自身の位置を見失うような錯覚を覚えます。しかしながら、学術的なテクストとして読めばこれは当たり前のことです。
ヨーロッパの知識人達のテクストなどでは、抽象的なキーワードとア・プリオリという決まり文句だけで話が進むことも多々あるので、引用が豊富ということは親切であるとも言えます。
例えるなら、今までの著作は縄文についての大島仮説についてわかりやすく解説していましたが、今回はもっと濃密な講義を行っている。そんな印象です。
■脳と心が生み出した迷宮 先日、NHKの歴史秘話ヒストリアに大島先生が出演され、やはり再生や月の水、ヘビのシンボライズなどについて述べられました。本書の読了後だったこともあり、興味深く拝見しましたが、その後にこの記事を書こうと思い読み返してみました。
本書の内容は全部で7章に分かれており、1章から3章にかけて心理学や民俗学の成果を用いながら、我が国の考古学が抱える問題点を明らかにしつつ、縄文の読み解きのための方法論を提示しています。
4章から6章まで、土器、ムラ、家、ストーンサークルについて子宮的性格という観点からのさらなる分析を展開しています。内容としては、今までの大島先生の主張されたことや研究のための方法について、その根拠を示しつつより精緻に述べられています。そして、ここでも考古学の現状を批判しています。
ここまで読み進めたところで、谷川俊太郎の
「脳と心」という詩をふと思い出しましたので、私もマネして引用してみたいと思います。
「脳と心」
この卵型の骨の器にしまってあるものは何?
傷つきやすく狂いやすいひとつの機械?
私たちはおそるおそる分解する
私たちは不器用に修理する
どこにも保証書はない
その美しいほほえみの奥にあるものは何?
見えるものと見えないものが絡み合う魂の迷路?
私たちはおずおずと踏み込む
私たちは新しい道標を立てようとする
誰も地図はもっていない
しかもなお私たちが冒険をやめないのは何故?
際限のない自問自答に我を忘れるのは?
謎をかけるのは私たち自身の脳
謎に答えようとするのも私たち自身の脳
どこまでも問い続け・・・いつまでも答えはない
謎を解き明かしたいという研究者達の欲求。しかし長い年月を費やして自らが組み上げた構造体から抜け出せなくなっている考古学者達。そこに異論を述べると批判し無視する。でもそれは自らを否定することになるかもしれないという漠然とした恐怖であり、極めて非論理的かつ人間的な反応とも言えます。
そんな人間ドラマも行間から垣間見える論考であり、縄文の謎に答えようとしつつ、近代考古学史としても読めて大変面白い部分です。
■よみがえりやまぬもの さて、最期の第7章は本書のクライマックスとも呼べる章で、
縄文人はなぜ死者を穴に埋めたのか、について論じています。
この章に限らず、本書ではすべての章の冒頭で引用文がおかれています。第1章から第6章までの引用文は、それぞれの章の内容に符合する他の研究者などのテクストからのものですが、この第7章だけはそれまでと異なり、
ポール・ヴァレリーの詩を引用しています。
ポール・ヴァレリーは19世紀後半から20世紀前半にかけて著作家や詩人、小説家として活動しフランスの知性と称された人物です。
私自身の話になりますがまだ海上自衛官だった20歳の冬に、このポール・ヴァレリーが1931年に発したある警句を目にして大変衝撃を受けました。そしてその衝撃が、ついには政治の道を志す一因となりました。まさに私の人生の一部を決定したと言っても過言ではない人物です。そんなポール・ヴァレリーの引用から始まる章ですから、読むのも力が入りました。
話が脱線しましたが、この章では縄文人の死生観について論じています。ここで
「再生」の概念が重要になってきます。
私たち現代人の死生観において重要な
(おそらく最大の)内在的論理は
「死の回避」です。
死は自己の消滅を意味し、これを回避することに大きな努力を傾けてきました。不老不死などは目指すべきゴールといったところでしょう。ところがいつまでたっても、うまく死を回避できた者が現れない、どうも死は不可避なようだ、と皆が薄々感づき始めたところで、死後の救済をスローガンにぶち上げた教えを唱える人物が現れた。世間の人々はその教えにすがり死への真正面から捉えなくてもよくなり、その恐怖を和らげることができる、という何ともいえない社会のシステムができあがり、現在ではそれを宗教と呼ぶようになりました。
宗教システムは比較的うまく機能しているようですが、死の回避そのものについてなんの具体的解決策を示してはいません。ですから学問や科学の名の下に死の回避の努力は続けられ、既得権益と化した宗教の一部との衝突すら起きています。
しかし、死と再生がリンクしている世界なら死をことさらに恐怖する必要はありません。死は消滅を意味しないからです。
我々現代人にとっては、
「生の終焉」としての
「死」があるため、
「生」と
「死」は対立する概念になりますが、縄文人にとって
「死」が消滅ではなく
「再生」の始まりを意味するのであれば、
「死」は
「生」と対立するものではなくなり、つまり
「生と死」ではなく
「生」のプロセスのひとつとして
「死」があることになるのではないでしょうか。
こうなると縄文人の
「死生観」という言葉すらあやしいものになってきますが、この方向に議論するとだんだんと意味論的になってくるので、死生観という言葉でここは良いことにします。
再生について論じられたところで、そのためのカギとなるのが
「子宮」です。子宮から誕生した生ける人間は、子宮に帰ることで再生のプロセスに入るという考え方です。そして実にたくさんの土偶や土器に、子宮のシンボリズムがあり、民俗学や神話学の成果もこれらを裏付けていると大島先生は論じています。
さらに他の章でも多少触れられていましたが、この第7章からエピローグにかけて縄文人の死生観と古い神道との共通点についても論じられています。つまり、子宮から出てくるためには産道を通り抜けるわけですが、神社もその神域に入るために鳥居をくぐります。この
「通り抜ける」とか
「くぐり抜ける」という様式に共通点を見出しているわけです。
ところで、私はあえて
「神域」つまり神の領域という言葉を使いました。縄文に神がいるのかという話になりそうですが、ここでは前出の死生観の意味論と同じく、宗教上の神ではなくこの世ではない世界くらいに解釈して下さい。
子宮から産道をくぐり抜けてこの世界に生者として現れ、いずれは死者となって再生のために子宮にもどると考える縄文人にとって、自己と世界、その
「内」と
「外」をどう捉えていたのでしょうか。
私たち現代人は、自らの皮膚の内側を
「内」、皮膚の外側を
「外」と認識しています。皮膚が肉体と外部の世界を分ける境界であり、自己は皮膚の内側にあると考えます。皮膚を含めたその内側は肉体そのものですから、その肉体が滅ぶことはただちに自己の消滅につながります。死を恐れるのは当然です。
しかし、
「内」が肉体ではなく
再生のための領域であるならばどうでしょうか。その領域が子宮であり、またはそれに見立てた神域(あるいは再生領域)であればどうでしょうか。そうなると自己とは
「内」にあるのでしょうか、それとも再生領域の
「外」にあるのでしょうか。
生まれてくる者も死に行く者も、すべての人間は再生領域から出てきて再生領域に帰るならば、たくさんの人々が再生を待っている領域が
「内」で、そこから生まれ出てきてしばらくの間、ひとりでひとつの肉体を使って生きてる
「私」というものは
「外」にいると感じるのではないでしょうか。
バカな妄想と一笑に付されるかもしれませんが、本書の第1章で述べられている
「融即律」についてあわせて考えてみると少しは面白いかなと思ったりします。
最後にもうひとつ、谷川俊太郎の詩を引用して終わります。
「からだ」
からだ―うちなる暗がり
それが私
ただひとりの
そよぐ繊毛の林
うごめく胃壁の井戸
ほとばしる血液の運河
からだ―闇に浮かぶ未知の惑星
それがあなた
私にほほえむ
いのちはひそんでいる
たったひとつの分子にも
だがみつめてもみつめても
秘密は見えない
見いだすのはいつも私たち自身の
驚きと畏れの……よろこび
そんなにも小さなかたちの
そんなにもかすかな動き
その爆発の巨大なとどろきを
誰ひとり聞きとることができない
いのちの静けさは深い
死の沈黙よりも
とおくけだものにつらなるもの
さらにとおく海と稲妻に
星くずにつらなるもの
くりかえす死のはての今日に
よみがえりやまぬもの
からだ