2012年09月05日

自然は保護するものじゃない

 タイトルの通り、私は自然保護とか環境保護といった言葉は嫌いです。ですから、この言葉を掲げて活動する人達とはちょっと距離を置いてしまいます。なぜ嫌いなのかは後述するとして、この手の保護活動などで気になる点についてまずは述べてみたいと思います。

 4年ほど前のことですが、当時在籍していたある青年団体では、マイ箸運動や100万人のキャンドルナイトなど、環境問題をテーマにいろいろな運動を展開してました。当時からそれらの運動にはいささか懐疑的な思いがありましたが、その頃は監事という役職を引き受けていたので率先垂範する立場にありました。
 毎日、節電やエコドライブを心がけ、食事の時はマイ箸を持参する。3R運動についての勉強会に参加し、論じ合う。それはそれでよいのですが、やはりうわべだけだなとガッカリしたこともたくさんありました。
 ある環境保護を訴えるイベントを開催した時のことです。そのイベントは飲食を伴うものだったのですが、まぁ、食べ残しの多いこと。言ってることとやってることが大違いでした。私自身は、もともと農村地域で育ち、今は実家が飲食店を営んでいるので、食べ物を大切にすることは至極当然。だから宴席などで出されたものはほとんど残しません。それだけに、ついさっきまで環境問題を訴えてた面々が食べ物を捨てる選択をすることは看過できませんでしたから、全部食べてから席を立つように、と指導しました。
 また、同様のことは議員同士で研修や視察に赴いているときでもありました。日頃から環境問題を口にする人達だったのですが、やはり同じことをしていました。相手は年配者ばかりなので特に指摘もせず、気にも留めていませんでした。が、なにやら感じるところがあったらしく私の振るまいが、いかに社会全体から見れば微細なもので効果が薄いかということを聞いてもいないのに力説していました。軽い逆ギレといったところでしょうか。こっちは別に環境問題のために平らげてるのではなくて、躾けられて習慣になっているだけだから、ほっといてくれって思いました。

 自分も含めて有言不実行は人の常かもしれませんが、なぜか環境問題を訴える人々にはこういったことが目立つように感じます。
 環境問題について考えを突き詰めていくと、最初のうちは節約とかゴミを出さないとか壊れた物は直して使うとか、身近な生活の工夫の話になりますが、最終的には便利な生活の一部を放棄する思想にたどり着きます。環境のためにある程度不便な生活を受容する、つまり環境のために我慢するということは、ストレスの増大につながります。このストレスを克服するためには何かしらの使命感が必要になるでしょうが、いつまでも耐えられるものではありません。そこで、出来ないもしくはやらない理由を見つけて、元の生活様式に戻ってしまうのです。ただ、どこかに良心の呵責はあるので前述のような、聞いてもいないのに環境問題の独自論を熱弁しはじめる人も現れるわけです。
 誰しも苦痛に感じることは長続きしません。環境問題に対する活動を生活に取り入れるならば、価値観の転換が必要不可欠です。それは、不便さに苦痛ではなく満足を感じるということです。最近ではスローとかロハスとかいった言葉でも表現されているようですが、多くを要求せず楽しむという中庸の精神が大切です。

 最後に、私がなぜ自然保護とか環境保護といった言葉が嫌いなのか、その理由を述べますと特に「保護」という言葉がおこがましい、と感じているからです。保護するとは相手を弱者とみなしているようなものです。自然環境を人間の手で守ってやるなんて、なんておこがましいんだ、と感じているわけです。人間の方が自然のごく一部なのだから、自然を保護するんじゃなくて遠慮して接する、自然の方が序列は上なのではないでしょうか。
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 昔から我が国では、万物に神が宿ると考えられ、自然の中でひときわ大きかったり目立つものは、そこの「ヌシ」であるとして、むやみに触れたり冒したりしないように、畏れ敬われてきました。宗教は進化するにつれ、自然崇拝やシャーマニズムから二元論、一神教に至ると考えられていますので、こういった日本古来の自然崇拝は原始宗教ということになります。
しかし、私は「ヌシ」を畏れ敬う思想は原始的なのではなく、自然を不用意に壊さないための知恵ではないかと考えています。西洋の宗教は一神教に至り、人間は自然のごく一部ではなくなり、地上における神の代行者になりました。全ては神が人間に与えたもうたものとなれば、それを自由に使う「権利」という概念が生まれてきます。権利として好きなだけ利用して、いろいろ壊したから今度は「保護」と称して神に代わって管理する。この感覚に、私はおこがましさを感じるのです。
 私たちが住むこの国では、縄文の昔からずっと自然の万物に神が宿り、この世界で人間の序列は最下位。だから全てのものに畏れと感謝をささげて生きてきたのでしょう。これは遠い祖先から連綿と受け継いだ尊い精神であり、持続可能な社会というものを実現するための、いにしえからの回答なのです。
 
posted by しらいし at 00:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 自然・科学・歴史

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