2012年10月28日

食べるということ ―生と死のつながり―

 昨年のある夜、友人同士で集まり夕食会をしていた時の話です。その中の一人が海洋センサーの開発者で、調査船で三陸沖の海洋を調査していたときのエピソードを話してくれました。食事中にはいささか不適切な話題だったかもしれませんが、それは東日本大震災での津波の犠牲者を海中で発見したという話でした。
 彼のその経験は大変凄惨なもので、海に引き込まれた犠牲者達は海底に沈まずに海面下数百メートルで漂っており、それをソナーで発見したとのことでした。しかも木質のがれきや多数の遺体が、空に浮かぶ雲のように海中深くに集まって漂っていたとも話していました。遺体の浮力と水圧の均衡により海の底まで沈むことなく、漂いながら少しずつ分解されていく様は、慣れない人にとっては想像の域を超えるものかもしれません。
 こういう海での犠牲者の話になると決まって出てくるのが「そこで獲れた魚は食べられない」というもので、もちろんその時も同じような発言がありました。たしかに、死んだ人間を餌にしたかもしれない魚を食べるのはいささか抵抗感があるものです。しかし、私は次のように異を唱えました。

 例えば、ある人が普通に老衰で死んだとする。すると、その人は火葬場で焼かれて灰になりお墓に納められる。しかし、焼却の際に肉体は灰になるだけでなく水蒸気や二酸化炭素、窒素などの気体にも分解され、煙突から排出され大気中に拡散していく。水蒸気はやがて雲の一部となり、雨として地上に降ってくる。その水は大地や海で他の生き物の一部となる。二酸化炭素や窒素なども、植物や微生物の働きで炭水化物やタンパク質などの有機物となり、食物連鎖のなかでやがて誰かの食卓に並ぶこともある。津波に呑まれて、不慮の死を遂げたことはとても痛ましいことだけど、たどるルートが変わるだけで自然界の壮大な物質とエネルギーの循環の中にいることは変わらない。だから、三陸の魚であっても過度の忌避は不要だと思う、と。

 津波で死ぬのも自然死と同じだから気にするな、などというつもりは毛頭ありません。想像もできない程の突然の災害で、いやおうなく命を落とした人々はまさに無念であったでしょうし、家族や知人を失った方々の心中を思うと心が痛みます。しかし、幸運にも直接の被害を免れた人達は、あの三陸の海の恵みをいたずらに忌避せずに冷静に向き合って欲しいと思うのです。

 さて、前出のエピソードで物質とエネルギーの循環、食物連鎖そして食べるということについて触れましたので、これらについて少しお話ししたいと思います。
 食べる、という行為は外部の物質を自分の体内に取り入れて、エネルギーにしたり体の一部を新しくするために必要なことです。食べた物のうち、化学エネルギーとして取り込んだものは運動エネルギーや熱エネルギーとして外部に放出し、体の一部と取り替えたものはいずれ古くなってまた取り替えられ排泄されます。いわゆる新陳代謝と呼ばれるこの働きにより、私たちの体は常に新しくなりつづけていて、3ヶ月程度でほとんど入れ替わってしまうと言われています。物質とエネルギーの循環という巨大な流れは、私たちの体をその経路のひとつにして通り抜けていくとも言えます。
 食物連鎖とは、太陽の光と水と空気や無機物から植物が生長し、その植物を草食動物が、さらにその動物を肉食動物が食べるという生命の繋がりを表した概念です。
 ここで少し考えてみて下さい。この生命の繋がりは食べるという行為を介しての繋がりです。食べている相手はおおむね他の生き物です。つまり食べるということは、同時に他の命を奪うことになります。そして、生き続けるためには食べ続けなければなりません。だから、生きていくこととは、殺し続けることでもあるのです。
 現代社会に生きる私たちは、このことから目をそらしがちです。私たちの生活のために毎日驚くほどたくさんの命が奪われています。それなのに我が国では食べずに廃棄される食糧は年間2000万トン以上。殺し続けて食べもしない、これではただ殺戮していることと同じです。
 それに比べて、昔の人々は食べることの罪深さをずっと身近に感じていたことでしょう。だから、自然の万物に対して節度を保ち感謝を忘れずに暮らしていたのだと思います。
 食べることによって生と死は繋がっているのです

 食べるということを通して生命の繋がりについて考えてきました。では、生命とはなにか。現代科学は未だ、生命を定義できません。ただ、生命の持つ一面が先に示した物質とエネルギーの循環です。DSCF0146.JPG
 太陽の生み出す膨大なエネルギーの奔流。そのわずかな一筋が地球に注がれ、物質とエネルギーの循環を形づくる。そしてそのループの一部分を構成しているのが生命であり、さらにその連なりのひとつずつが地上の草花や木々、いたるところに存在する微生物、海に泳ぐ魚や海草、鳥や動物そして私たち人間なのです。
 生命は互いに繋がっており、生命と非生命もまた繋がっているのです

 悠久の時の中で紡がれる、物質とエネルギーの循環の中で生命としてひととき存在すること。その尊さにもっと思いをはせていただきたいと思っています。
posted by しらいし at 23:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 自然・科学・歴史

2012年10月17日

維新の会の「維新」って?

 大阪維新の会から日本維新の会へ。良くも悪くも世間を賑わせていますが、私のところへも賛否両論、様々な意見が寄せられています。(以下、維新の会と略します)
 橋下維新の会は日本を立て直すとか、文化芸術を軽視しているとか、当主の橋下徹の個人商店に過ぎないとか、既成政党は信用できないから維新の会に期待するとか・・・。そんな中で傑作だと思ったのが、ある女性の友人が断じていたものです。曰く「あの程度で維新を名乗るな!」でした。その彼女は大変歴史に強い、世間一般に言う「歴女」と呼べる人物で、しかも昨今の流行に乗ったものではなく筋金入り。
 確かに維新とは「周雖旧邦 其命維新周という国は古い国であるが、新しき天命を受けている、の意)」からの引用であり、周とは中国の古代国家のことで今のところ最古の国家である殷の次という古さです。江戸時代にこの言葉を引用した人物は、倒幕の意志ありやと幕府からマークされるほどの重大な意味を持っていました。そんな重い言葉を軽々しく使うな、という意見は実に痛快なものがありました。

 さて、維新の会が国政を目指し始めて世間の耳目を集めていた頃に、今後躍進するのかどうか意見を求められたことがありました。その時、私は「それなりに躍進するが、程なく失速するだろう」と答えました。なぜそう考えたのか、それは維新の会には「宗教とイデオロギー」が無いように見えるからです。
 宗教、といっても何かの宗教を信仰しなさいという話ではありません。私がここで言う宗教とは、歴史や風土などに裏打ちされた精神文化としての宗教であり、またそれに対する理解と洞察です。
 精神文化としての宗教は、人々が生きていく上の行動規範であり価値基準でもあります。それらの概念や理念はひとつの神の下に教義として集約されることもあれば、多数の神々の意志として表現されることもあり、また複数の教義や経典、全く異なる複数の宗教の共存の下、示されることもあります。我が国では政教分離を民主主義の原則として掲げていますが、これは特定の利害を有する団体としての宗教を政治から排除しようとしているのであって、精神や思想に制限を設けるものではないのです。
 また、イデオロギーとは政治的な思想や教義ということになりますが、そもそも宗教とイデオロギーは連続している概念でもあります。いささか乱暴な表現ですが、宗教から神のような人間を超える存在を取り除き非論理的に見える部分を否定するとするとイデオロギーになります。
 維新の会は、既存の社会の改革を旗印にしているようですが、その政策は今まで数々の評論家や政治学者などによって示された改革案のいいとこ取りに見えます。いいとこ取り、そのものは否定されるべきものではありませんが、数々の改革の末にどのような国になることを目指すのかが維新の会からは見えてきません。橋下代表の行動力は目を見張る物があり、高く評価されるべきものではありますが、イデオロギーという軸のない有権者受けする改革案の寄せ集めは、結局のところ失敗するという教訓を私たちはこの数年で得たはずです。

 かつて私たちの国は、多数の人々が民主党の掲げるマニフェストに希望を見いだして、政権を任せる選択をしました。
 あえて遠大な目標を掲げて、国民を鼓舞するという手法は昔から存在しますが、実行不能に見える困難な政策と、実行不能な政策はイコールではありません。よく「グランドデザイン」という言葉を好んで使う人もいますが、グランドデザインを実現するには「グランドストラテジー(大戦略)」を定めなくてはなりません。グランドストラテジーの伴わないグランドデザインは単なる大ボラ、大言壮語とそれほど違いません。

 維新の会が掲げる「維新」というグランドデザインに果たしてグランドストラテジーは伴っているのか。それを考えたときに、冒頭に紹介した友人の酷評はまさに正鵠を射たものかもしれません。
posted by しらいし at 03:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 政治・行政

2012年10月12日

オスプレイって何がまずいんですか?

 最近、オスプレイという航空機についていろいろ騒がしくなっています。特に沖縄県では県民大会まで開催されるほどの反対ぶりで、私にはいささか奇異に映りました。
 沖縄の人々の苦しみは私たちには理解できないほどのものなのかもしれませんが、それでも批判を恐れず申しますと、やはり奇異なものであり少々不当な要求でもあると感じます。
 例えば、沖縄県知事は安全性が確認されない限り配備を認めないというような主張をしていますが、私にとっては度し難い不当な主張だと思います。以下にその理由を示します。

1.どうやって安全性を確認するのか
 安全性の確認、といっても知事はおそらく航空工学の専門家でもないしベテランのパイロットでもありません。航空機については単なるド素人です。その素人がどういった手段で安全性を確認するのでしょうか。専門家が安全であると意見を述べても「納得できない」と言い、危険性があるという意見には何の裏付けもなしに賛同する。記者会見などで「納得できない」を連呼しますが、ではどのようなデータを提示したら納得するのか全く明らかにしていません。これでは、安全性に懸念があるのではなくて、とにかく配備は反対だということになります。それならそう言えばよいのではないでしょうか。

2.本当に危険なのか
 オスプレイは開発当初から事故が続いて、その危険性が懸念されている・・・、とよく言われていますが、本当にそうなのでしょうか。事故率で見ると、オスプレイの安全性は平均的であると思われます。事故率ではなく、事故が起きたときの死者が多いということに懸念されている方もいらっしゃいますが、その尺度で言うなら最も危険な航空機は大型旅客機で、一人乗りの戦闘機が最も安全ということになってしまいます。反対するために都合の良い数字を引っ張ってくるのは、もはや議論ではなくケンカです。だいたい、オスプレイに乗るのは米軍の兵士達です。自国の兵士達をむやみに危険にさらすことは考えられません。日本人に安全性云々されても「大きなお世話だ」と感じているのではないでしょうか。

3.配備に反対する権限はあるのか
  先日、オスプレイの配備は戦力の強化が目的ではないか、と尋ねられました。これに対してはイエスでもありノーでもある、と答えました。
 イエスというのは、旧式の機材を新型に更新するのですから部隊の能力が向上してしまうのは当たり前であるという話です。ノーというのは、部隊編成を大幅に増強するわけではないという点です。部隊の任務や基本的な戦略に何も変化が無く、単なる機材の更新なのですから日頃のメインテナンスの拡大版みたいなものです。何かもの凄い戦略を隠していると考えるのは、いささかオタクっぽい感じがします。米軍にとって今回のオスプレイ配備はそれほど大げさな事ではないはずなのです。
 ところで地方自治体が国家の安全保障にかかる問題で、しかも自国でなく同盟国の装備の件に注文を付けるというのは正当な行為なのでしょうか。沖縄県知事は、日本国の安全保障についてどのような責任を取るつもりなのでしょうか。責任は取らないが邪魔はするというのであれば、それは地方自治体ではなく別の国として行うべきでしょう。琉球という独立国家になって自分自身で安全保障を確保すればよいのです。もっとも、東シナ海の対岸の国は琉球は自国の領土だと主張しているようですから、いつまで独立国でいられるかは分かりませんが。

 ここまで厳しい意見を述べましたが、そもそも沖縄の人々の反感を買っているのはオスプレイのことではなく、多数の基地を抱えることによる負担が大きいという点なのではないでしょうか。安全保障の恩恵は全国民が等しく享受するものです。しかし、そのための負担は主に沖縄が背負うというのでは、道理が通りません。
 では、全国各地に基地を分散して皆等しく負担を分かち合おうという話になるかというと、これは運用側つまり米軍の都合がまるで無視された話になります。軍事力とは、ただ必要な数がいればよいというものではありません。効果的に運用できない部隊は、いないのと同じ、いやそれ以上に悪い存在です。
 沖縄の人々の怒りに対して何を答え、負担に対してどう報いるのか。真剣に考えなければならない事なのに、マスコミはおもしろおかしく騒ぎ立てNHKですら不安をあおるような報道姿勢で騒動をかき回しているだけです。さらに政治家達は、反対運動が盛り上がるとみるや、これに悪のりして重要な軍事同盟に安易に爪を立てて、周辺国におかしなメッセージを拡散する始末です。
 沖縄の基地問題は、南の島で起きている他人の騒動と捉えるのではなく、日本に住む人々全てに関係する問題と考えるべきです。

 自分達の安全について真剣に努力しない国をいつまでも生かしておくほど、この世界は優しくありません。
posted by しらいし at 23:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 政治・行政

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