2012年10月17日

維新の会の「維新」って?

 大阪維新の会から日本維新の会へ。良くも悪くも世間を賑わせていますが、私のところへも賛否両論、様々な意見が寄せられています。(以下、維新の会と略します)
 橋下維新の会は日本を立て直すとか、文化芸術を軽視しているとか、当主の橋下徹の個人商店に過ぎないとか、既成政党は信用できないから維新の会に期待するとか・・・。そんな中で傑作だと思ったのが、ある女性の友人が断じていたものです。曰く「あの程度で維新を名乗るな!」でした。その彼女は大変歴史に強い、世間一般に言う「歴女」と呼べる人物で、しかも昨今の流行に乗ったものではなく筋金入り。
 確かに維新とは「周雖旧邦 其命維新周という国は古い国であるが、新しき天命を受けている、の意)」からの引用であり、周とは中国の古代国家のことで今のところ最古の国家である殷の次という古さです。江戸時代にこの言葉を引用した人物は、倒幕の意志ありやと幕府からマークされるほどの重大な意味を持っていました。そんな重い言葉を軽々しく使うな、という意見は実に痛快なものがありました。

 さて、維新の会が国政を目指し始めて世間の耳目を集めていた頃に、今後躍進するのかどうか意見を求められたことがありました。その時、私は「それなりに躍進するが、程なく失速するだろう」と答えました。なぜそう考えたのか、それは維新の会には「宗教とイデオロギー」が無いように見えるからです。
 宗教、といっても何かの宗教を信仰しなさいという話ではありません。私がここで言う宗教とは、歴史や風土などに裏打ちされた精神文化としての宗教であり、またそれに対する理解と洞察です。
 精神文化としての宗教は、人々が生きていく上の行動規範であり価値基準でもあります。それらの概念や理念はひとつの神の下に教義として集約されることもあれば、多数の神々の意志として表現されることもあり、また複数の教義や経典、全く異なる複数の宗教の共存の下、示されることもあります。我が国では政教分離を民主主義の原則として掲げていますが、これは特定の利害を有する団体としての宗教を政治から排除しようとしているのであって、精神や思想に制限を設けるものではないのです。
 また、イデオロギーとは政治的な思想や教義ということになりますが、そもそも宗教とイデオロギーは連続している概念でもあります。いささか乱暴な表現ですが、宗教から神のような人間を超える存在を取り除き非論理的に見える部分を否定するとするとイデオロギーになります。
 維新の会は、既存の社会の改革を旗印にしているようですが、その政策は今まで数々の評論家や政治学者などによって示された改革案のいいとこ取りに見えます。いいとこ取り、そのものは否定されるべきものではありませんが、数々の改革の末にどのような国になることを目指すのかが維新の会からは見えてきません。橋下代表の行動力は目を見張る物があり、高く評価されるべきものではありますが、イデオロギーという軸のない有権者受けする改革案の寄せ集めは、結局のところ失敗するという教訓を私たちはこの数年で得たはずです。

 かつて私たちの国は、多数の人々が民主党の掲げるマニフェストに希望を見いだして、政権を任せる選択をしました。
 あえて遠大な目標を掲げて、国民を鼓舞するという手法は昔から存在しますが、実行不能に見える困難な政策と、実行不能な政策はイコールではありません。よく「グランドデザイン」という言葉を好んで使う人もいますが、グランドデザインを実現するには「グランドストラテジー(大戦略)」を定めなくてはなりません。グランドストラテジーの伴わないグランドデザインは単なる大ボラ、大言壮語とそれほど違いません。

 維新の会が掲げる「維新」というグランドデザインに果たしてグランドストラテジーは伴っているのか。それを考えたときに、冒頭に紹介した友人の酷評はまさに正鵠を射たものかもしれません。
posted by しらいし at 03:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 政治・行政

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