このところ、改憲・護憲の論争が各所で活発化しています。当ブログでも2011年5月4日の記事「憲法記念日」において多少触れていますが、率直なところ憲法議論を巡る状況は劣化していると感じます。2年前の記事では、議論の前にもっと現憲法を学ぶよう書きました。しかし、巷での論戦を見るに短絡的な視点はますます目立つようになり、もはや憲法の何たるかを論じる向きは埋没してしまっているようです。
以下に憲法論議についての散見される論点を挙げて、私の懸念を記したいと思います。
「96条改正」
これは、現憲法の硬性憲法たる性格を定めている改正手続きについての条文です。実際の条文は次の通りです。
第九十六条 この憲法の改正は、各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票において、その過半数の賛成を必要とする。
憲法改正について前項の承認を経たときは、天皇は、国民の名で、この憲法と一体を成すものとして、直ちにこれを公布する。
確かに、衆参両議院のそれぞれ2/3以上(しかも総議員!)の賛成がなければ改正の発議が出来ない、裏を返せば1/3強の反対のみで改正を妨げられるということになり、改正しにくい状況であるといえるかもしれません。よく比較の対象にされるアメリカ合衆国憲法は成立以来18回の改正(アメリカ合衆国憲法は改正ではなく修正条項の追加になりますが本記事では他国の憲法等も含めて改正と称します)を行っています。しかし、アメリカの憲法は我が国の憲法を上回るほどの”超硬性憲法”でもあります。アメリカ合衆国憲法を改正するためには、上下両院の2/3以上の賛成を得た後、3/4の州議会で承認されなければなりません。我が国以上の厳しい基準を持つアメリカが何度も改正できたのは何故なのでしょうか。理由の一つを挙げますと、改正提案の多さです。アメリカでは年間に100件以上の提案が成されているのです。実際、そのほとんどは議会の付託を受けた委員会の段階で廃案にされていますが、これだけ多数の提案がなされているということは、それだけたくさんの熱心な議論が行われているということでもあります。
膨大な議論と検討を経て磨き上げられた改正案だけが提出され可否を問う、というある意味当たり前のことがしっかりと行われているのです。翻って我が国では、改正の発議を目指して提案がなされたことがあったでしょうか。
議会を通る見込みのない提案などはできないという考え方もあるでしょうが、廃案確実だからといって議論の手間を省けるほど、私たちの知性は先見性にあふれ、誤謬のないものなのでしょうか。96条改正を巡る議論の中には、こういったおこがましさが見え隠れしているようにも感じます。
「9条改正」
これは改憲・護憲の両派にとって本丸に位置づけている方々も多い、ほとんど中心的といってもよい論点であると感じます。96条改正問題自体も、議論の中ですぐにこの9条改正問題にすり替わってしまいます。
私はこの9条改正論議は、様々な憲法論議の中でも最も程度の低いものではないかと感じるようになっています。
9条があるから戦後日本は平和でいられた、9条のおかげで屈辱的自虐的外交を強いられた、ととにかく極論が目立ちます。批判をおそれずに述べますが、9条が戦後の我が国の平和をもたらしたわけではなく、屈辱的自虐的外交に導いたわけでもありません。
9条も含めて日本国憲法は他国にとっては単なる日本の国内法に過ぎず、友好国であれば多少は敬意を払ってもらえるでしょうが、もともと諸外国にその遵守を期待できるものではありません。9条があろうが無かろうが、合理的と判断すれば諸外国は我が国との交戦を決意するでしょうし、自虐史観や屈辱外交という状況もバランスオブパワーという概念を国民が理解せず、また理解出来て行動する者を支持しないがために、安易な対外政策と教育政策を採り続けた結果にすぎません。
9条の本質は、世界史と国際社会に対する思想的挑戦です。自国の安全を武力によって担保せず信義と公正を高らかにうたうその姿勢は、神秘的ですらあります。しかし、悲しいかな私たちは様々な弱さを持ち間違いを犯す人間であり、諸外国の人々もまた同じです。互いの正義が一致しないこともあれば、正義の在処を見失うこともあります。9条の精神が正しくとも、私たちがそれについて行けなければ意味はありません。
実際、現憲法が施行されたのは1947年ですが、その3年後には陸上自衛隊の前身たる警察予備隊が発足したりしています。いきさつはどうあれ、9条の精神では安全保障を確保することが出来ないということであり、時期尚早であるということなのでしょう。
しかし、理想を掲げなければ進歩はありません。その点では9条の精神は高く掲げられるべきものでありますが、その理想を実現していく私たちと国家が滅びてしまっては何の意味もありません。生きて理想を実現するためには生存戦略が必要であり、ここを誤れば私たちは歴史の断章として過去の存在となることでしょう。反対に理想を貶めて、生存のみに価値を認めるならば、世界における名誉は得られず、ただ利用されるだけの国家となることでしょう。
9条の改廃を訴える人々の中には、日本古来の歴史観や価値観とか武士道とかを語る人が多数見受けられます。しかし、武士道をとなえるならば我欲のために刃を振りかざすことなく、義と名誉を重んじる生き方となりましょう。私もかくありたいと思います。
9条の不戦の精神も究極的には、死するともなお戦わずということになります。死ぬのはイヤだからその時だけは戦うということならば、その不戦の精神とやらは何なのでしょうか。不戦の精神とは短期的には危険を引き寄せる概念であり、犠牲をいとわず自ら掲げた正義のために殉じ続けた果てに、世界の諸国民にその正義を理解して共生してくれることを目指す思想なのです。そんな茨の道に自ら邁進していける強い精神性を感じさせるものといえば、私が思い浮かべるのはまさに武士道です。もしかしたら、9条の厳しい精神を本当に体現していけるのは武士道の伝統を持つ私たち日本人だけなのかもしれません。
「護憲」
この言葉はもはや本来の憲法の精神を逸脱しているとしか感じられません。いわゆる護憲派とされる人々は、現憲法を金科玉条のように崇めていて一言半句の改正も許さないといった雰囲気すらあります。そもそも、憲法は誰のためのものなのでしょうか。言うまでもなく私たちのためのものです。しかしながら私たちの社会は時代と共に変化していきます。そして、誰が起草したにせよ憲法を作ったのは私たちと同じ人間であり、そんな人間の作った法律が60年以上もそのままで通用するものなのでしょうか。
憲法は一字一句も変えさせないという考え方は、社会にとって極めて有害な考え方です。しかしその原因の一つは改憲派にもあります。護憲派から見ると、改憲派の目的は9条の改廃なんだという疑いが強く信用できないのです。実際に9条を改正して独自の軍事力を構成するという論調は改憲派の中に多く見られます。改憲派からも、もっと真摯な態度と提案が必要だと思います。
もう一つ、護憲派の中核の一つは日本共産党ですが、1946年の第90回帝国議会において、日本国憲法の採択に反対票を投じています。その後、憲法は一切の改正もなく今日に至っていますが、日本共産党は現在護憲の立場をとっています。一字一句も変わっていないのになぜ反対したものを、今は守ろうとする立場に変わってしまったのか。時代と社会の変化と共に考え方を変えることそのものは全く正当なことですが、しっかりした説明が必要でしょう。
「国防軍」
自衛隊を国防軍にするという話題にからんだ懸念を述べたいと思います。今に始まったことではありませんが、我が国ではやたらと独自の軍事力とやらの議論が盛んです。中には、アメリカを相手に戦争して勝てる力が必要だとする論調もあります。国防軍という言葉の持つ雰囲気が議論を先鋭化させていることは否めません。
自国の安全保障を論じることそのものはとても大切ですが、それと軽々しく戦争を語ることはイコールではありません。「平和を欲するならば戦争に備えよ」、という格言もありますが、これは戦争を求めるということではなく、平和と戦争の関係性をよく理解して、戦争の危機が近づいたときはそれを遠ざけるために備えておけという意味でもあります。
曖昧な記憶で申し訳ありませんが「自分の命が勘定に入っていない戦争には、いかなるエンターテイメントも敵わない」という格言があります。勇ましく戦争を口にする方々は、自ら語るその戦争に、ご自身の犠牲は入っているのでしょうか。
憲法の議論をすると、たちまち軍事力の可否を問う議論になってしまったり、短絡的な押し問答にしかならない現状では、まともな憲法改正を論じることはできないのではないでしょうか。我が国に残された時間はそれほど無いかもしれませんが、それでもなお省略してはいけないステップがあります。まずは、私たちの憲法をよく知ることです。