2013年08月02日

都合の良い世界の住人達



 NHKのニュースでは「インターネット依存」と伝えられていましたが、内容はオンラインゲームやSNSなどへの中毒的な依存状態をさしています。中高生だけでも52万人近くいると考えられているようで、今後も増える傾向にあるとのことです。日常生活にも支障をきたし、心身の成長にも悪影響をおよぼしているそうですが、なぜこれほどまでに没頭してしまうのでしょうか。

 今回の報道でふと思い出したのが、高校生の頃に自分も没頭したゲームブックというものです。これは、単行本サイズの小さな本に冒険物語が「バラバラな断片に分割されて」収められているもので、通常の本のように先頭から順に読み進めることはできません。バラバラの断片(パラグラフ)の最後に選択肢が示されており、それぞれの選択肢は異なるページへ読み進めるようになっています。その選択は自由に出来ることもあれば、サイコロの出た目や自分のキャラクターの状況により行き先を指示されることもあります。またところどころで戦闘やトラップも発生し、そこでゲームオーバーとなることもあります。
 初めて手にしたゲームブックにすっかりのめり込んだ私は、まさに寝食も忘れ、家でも学校でもその本を離さずにプレイしていました。登下校で友達と一緒に歩いているときも、頭の中はその小さな本の中の城塞都市のことでいっぱい。学校の行き帰りの街並みさえも、古めかしく薄暗い石畳の路地に見えてくる始末でした。
 さすがにその後はゲームブックに慣れたせいもあってか、ほどほどに遊ぶようになりました。

 高校を卒業後、海上自衛隊に入隊した後には、あるパソコンのロールプレイングゲーム(RPG)にはまったことがありました。当時、高い難易度で知られていたマイト&マジックというそのゲームを、ほぼ1年間かけて楽しみました。寝食を忘れるという程ではありませんでしたが、それでも休みの日は朝から晩までそのゲームで遊んでいました。

 そして同じ頃、インターネットが一般に普及する前に利用していたのがパソコン通信という文字ベースのネットワークでした。それまでパソコンの使い道はひとり孤独に画面と向き合っていただけだったのが、通信回線を通して実社会とは別のコミュニケーション手段と人間関係が手に入ったのです。これにもすっかりはまってしまい、もの凄い電話料金を払ったことが何度かありました。

 このとき、ふと考えたのが今で言うオンラインゲームです。通信回線を通して人々がひとつのゲーム世界を共有し、そこで好きなように行動する。互いに影響を与え合うことができるそのゲーム世界はそれなりに多様性を持ったものとなるだろうと考えました。そのアイディアをその時実現していれば、今ごろ大富豪かまたは一発屋として成功の後大失敗して借金まみれになっていたかのどちらかだったでしょうが、あいにく私自身には形にするだけの技術はなく、身の回りにも実現できる程のエンジニアはいませんでした。
 ただ当時から、いつかネットワーク上のゲームが社会現象になり、のめり込むあまりカウンセリングを受けなくてはならない人々が現れるだろうとは思っていました。
 この予測は当時でもそれほど難しいものではありませんでした。なぜなら、ネットワークではない自分しかいない孤独なゲームですら、現実との区別がつかなくなるほど没頭できるのですから、そこに自分以外の人間が存在し一種の社会を形成することになるオンラインゲームならのめり込むのは当然だからです。

 ネットのコミュニティー、特にゲームという架空の世界を設定されたコミュニティーは、いわば「都合良く省略された世界」です。
 例えば、剣と魔法の世界での冒険を考えてみましょう。現実の剣は結構重いもので、撃剣など簡単にできるものではありません。鎧甲なども大変重く、そんなものを身につけて長距離を移動することなど、相当な体力が無いかぎりまず無理でしょう。冒険につきものの野営にしても、しっかりした知識と経験、装備がないと休むことすらままならないものです。草むらに座れば小さな虫があちこちにいます。何日間も野外で行動するとすれば、当たり前ですが風呂もシャワーもありませんから、体は汗と脂と土や埃でベタベタドロドロ。そんなリアルな苦痛や不快感をバッサリ省略し、冒険ロマンを体験できるゲーム世界はやはり都合良く省略された世界なのです。
 快楽に不快な代償が伴えば、それは歯止めとなり自制心が働きますが、その代償がほど良く省略された世界では快楽だけがもたらされ、どこまでものめり込むことになるのです。

 では、都合良く省略された世界の快楽に溺れることなく、適度に楽しめるようになるためにはどうしたらよいのでしょうか。
 私の意見は「他の価値観または楽しみをもつ」です。ゲームも面白いけど読書やスポーツ、人との会話なども面白いと感じることです。
 不快感を適度に省略された世界においてもなお全ての人が払わなければならない代償は「時間」です。時間だけは増やすことができず、ただ失い続ける価値です。ゲームやSNSにしか価値を見出さない人にとってはそれが全てなのでしょうが、他の楽しみをもつ人にとっては時間をどう配分するかという問題がおきます。ひとつの楽しみに全ての時間を割り振れば他の楽しみが失われる。快楽の追求が喪失と表裏一体となれば自ずから依存しなくなることでしょう。

 凡庸な呼びかけになるかも知れませんが、ゲーム以外にもこの世界には楽しいことがたくさんあります。ネット依存は人生にとって実にもったいない状態だと私は思います。
posted by しらいし at 01:32| Comment(0) | TrackBack(0) | IT

2013年08月01日

もはや止まらない韓国の反日病



 このところ、韓国の反日的言動・行動はエスカレートするばかりで全く止む気配がありません。
 現在までのところ、韓国の方により過激な傾向が見られ、対して我が国はうんざりしているという構図に見えなくもないですが、国内でも目に余る程のヘイトスピーチがみられます。こういったいがみ合いは全く好ましいことではないので、実に残念なことです。

 韓国の反日はもはや病気ではないかと思える程ですが、なぜ国際的な常識や条約を覆してまでああいった行動に走るのでしょうか。
 これは推論に過ぎませんが、一つには反日・愛国教育のやりすぎではないかと考えます。歴史上、国内問題から自国民の目をそらすために外部に敵を作るという世論操作は数え切れないくらい行われてきました。韓国もまたその例の一つであろうと考えますが、外部に敵を作るという方法は単なるごまかしであり、なんら問題を解決することはありません。自国民の不満が爆発するまでの時間を稼ぐことが出来るというだけであり、問題の先送りに過ぎません。まぁ、稼いだ時間で問題を解決もしくは緩和することが出来れば効果はありますが、曲げた世論を元に戻すために多大なエネルギーを費やすことにもなり、トータルではあまり効率の良い政策ではありません。
 そして、もう一つは国内の不安が高まっているのではないかということです。韓国経済は大変脆弱な構造であり、外部からの影響に対してとても弱い面があります。また、財閥への富の集中という問題も抱えており、貧富の格差が拡大しつつあるようです。格差の拡大は社会不安を引き起こし不安定化することは歴史上の常識です。漠然とした不安感から来るフラストレーションが反日という行動でとりあえずガス抜きされているということであれば大変深刻な状況です。

 この問題に関する我が国のとるべき道は、しなやかに受け流す姿勢と理性的で制御された反論でしょう。相手と同じ土俵に上がってケンカに応じることはないのです。長期的に見た場合、韓国のとっている行動の結果は、彼ら自身にとってより大きなダメージを負うことになるでしょう。下手をすれば一時的に国家が崩壊する危険性もあります。そこに引きずり込まれないように、同じペースで応じないよう自らを律していかなくてはならないのです。在特会のごとき過激なパフォーマンスやヘイトスピーチを繰り返す行為は、我が国の安全を損なう行為なのです。

 そして、今後韓国が立ち直って冷静になれば結構なことですが、万一危機に陥った場合に備えることも大切です。危機に乗じて強気に打って出るのか、それとも救いの手を差し伸べて恩を売るのか、または助け船を出しつつ弱みを握って我が国の制御下に置くのか、そしてこれら様々なパターンにおいて韓国国民の感情を逆撫でしないようにするにはどうしたらよいのか、そもそもその時点で我が国自身が健全でいられるのかどうか、考え準備すべき事は山積しています。悠長に相手を罵ってる場合ではないのです。
posted by しらいし at 02:32| Comment(3) | TrackBack(0) | 政治・行政

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