2013年11月25日

「一票の格差」は本当に問題なのか



 今年春に札幌や広島、名古屋ほか各地の高裁で昨年末の衆議院選挙の違憲や選挙無効判決が相次ぎました。11月20日には最高裁で、これらの判決からはやや後退した「違憲状態」という判決が出て、違憲訴訟を進めていた原告団からは落胆の声も出たりしましたが、いずれにしろ合憲ではないという判断が下されたことに変わりはありません。
 最高裁判決の後、日本経済新聞が発表した世論調査でも格差の早期是正を求めている意見は59%に上ったと報じられました。

一票の格差は大都市対地方
 確かに、一票の重みが地域によって異なることは憲法に記されている「法の下の平等」に反しています。しかし、単純に議席数を人口に比例させることが国民の権利を守り自由と安全を維持し続ける手段たり得るのでしょうか。

 国政における議席配分と人口の格差は、大都市の方が価値が薄く、人口の少ない地方ほど重くなる傾向があります。これは、大都市に住む人々の意見よりも地方の意見の方が国政上重く扱われることを意味します。この格差は現在、最大で2倍を超えています。
 これだけ見ると確かに国政上の不平等が存在します。では、地方の議席を減らして大都市の議席を厚くするべきなのでしょうか。
 私は、ここに有権者の資質が問題になると考えています。当たり前のことですが、国会議員は衆参問わず、必ずどこかの地域から選出されてきます。そして、有権者は必ずしも国全体のことを考えて投票するわけではありません。それどころか、地域への利益誘導を願って投票する人々はたくさんいます。そもそも全ての国民が地元の事情を顧みず国益だけを考慮して政治に参加できるなら、選挙区は全国区のみでよく、それどころか国会そのものの必要性も薄れます。現実には、有権者の思考は地元利益優先に成らざるを得ないので、多数の選挙区と議席を用意して議会の上に国民のバラバラな意見の全体像をある程度再現しようとしているのです。

地方偏重は不合理か
 ここで考えていただきたいことは、多くの有権者は地元の表面上の姿しか見えていないという点です。例えば、東京の有権者は地方の有権者に比べて、一票の重みが低くなりますので、自分たちの意見は蔑ろにされていると感じていることでしょう。東京の方々、またそこから選出される政治家達も「東京は単独でちょっとした独立国よりも大きな経済力と人口規模がある」という意見を口にすることがあります。だから、現状の格差は地方の犠牲になっているという話になります。
 本当にそうでしょうか。様々な統計資料からは、東京は単独では数日と持たないという結論が導き出せます。地域ごとの食糧自給率で見ても東京のそれは1%程度、理屈では東京は自分たちの消費する食糧のうち自分たちで生産できる量は3日分だということになります。水もエネルギーも東京は自らの領域内では確保できていません。事故を起こした福島第一原子力発電所で生産されていた電力のユーザーの大部分は東京都民だし、民主党政権時代に迷走した群馬県の八ッ場ダムもそうです。東京は自らの手では食糧も水もエネルギーも確保できないのです。もし東京が独立国となったと想定すると、これら生きていくために不可欠な資源の確保に莫大なコストを払うことになるでしょう。生活や都市機能を維持していくための様々なコストは高騰し、都市は衰退を免れないでしょう。
 これは、東京に限らず大都市は概ねこのような状況です。大都市は地方がないと生きていけないのです。
 しかし、問題は大都市の市民はその実情をあまり理解しないところにあります。だから、過疎や不景気に苦しむ地方に対して「好き好んで地方に住んでいるのだから自己責任だ」という暴言を吐くのです。もっとも地元のことしか見えていないのは地方も同じで、大都市には国家経済におけるエンジンの役割を担っていることを忘れがちです。
 ただ、地方は大都市が無くなっても貧乏ながらにやっていけますが、大都市は地方が無くなると瞬く間に干上がってしまうという点に留意する必要があります。
 私が「一票の格差」について問題なのか、という論点を持つのはこの点からです。大都市側が自らの生存について地方に依存してる状況がある以上、ある程度の地方偏重はやむを得ないということなのです。

一票の格差是正の議論は単純じゃない
 全ての国民が、国全体のことを考えて政治を考えてくれるなら、それぞれの地元が他の地域とどのように関連しているかを熟慮して政策を論じることが出来るなら、ただちに人口に比例した議席の配分をするべきです。
 しかし現実は違います。だから、たとえ大都市の市民が地方軽視どころか無視したとしても、彼らの生存のために必要不可欠な地方が荒廃しないように、ある程度の格差は必要なのです。どの程度の格差が必要なのかという議論をせずに、拙速に格差是正を訴えることは長期的に見て大都市の不利益になることでしょう。大都市の市民達には、この点をよく考えていただきたいと思います。
posted by しらいし at 13:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 政治・行政

2013年11月06日

減反政策の廃止は以前からわかっていた話


 米の生産調整、いわゆる減反という政策について農林水産省が5年後をめどに廃止する方向で検討に入ったという報道がありました。
 今後、様々な混乱があるものと思いますが、減反政策の廃止はずいぶん以前から想定できた話です。

5年前に予測できたこと
 5年程前のことと思いますが、その頃北斗市議会の議員として2期目を勤めていた私は、議会の質疑において「いずれ、好むと好まざるとにかかわらず、必ず減反政策は廃止されます」と発言したことがありました。その発言の後、農家出身の他の議員達から批判やヤジを多少なりとも受けました。それらの批判はおおむね「農家でもないド素人が農政に口を挟むな」という趣旨だったと記憶しています。そして減反廃止などあり得ないとも言われました。
 しかし各種統計資料を読めば、我が国が減反政策の廃止に舵を切らざるを得なくなることは、当時から十分に予測できたことでした。TPPによってこの流れは多少加速されたようですが、いずれにしろ不可避のことなのです。
 なぜ、5年前の市議会で減反政策の廃止について発言したのかと申しますと、そのさらに先を見据えた政策を提案しようとしたからです。
 世界の食糧生産力と人口のバランスは人口過多に傾きつつあります。食糧の生産力が人口を多少上回ったとしても、配分の機能が最適化されていないため、世界では常に飢える人々を生み出してしまいます。ただし、この状況下ではカネを払えば食糧は手に入ります。これが今までの我が国の状況です。
 しかし、食糧生産力よりも人口が上回ってしまったら、完全に最適な配分が行われたとしても全ての人に食糧は行き渡りません。常識的に考えて、自国民を餓死させてまで他国に食糧を売ることはないので、カネを積んでも売ってくれない状況が現れます。将来の我が国が直面する状況がこれです。
 ここ10年程、世界の食糧生産力と人口は逆転するかしないかの状況であり、さらに悪化しつつあるようですから、いずれ減反政策という生産調整などやっている場合ではないという話になることは、十分予測できたということなのです。

世界の食糧危機は北斗市のチャンス
 ここまでは、世界レベル・国家レベルの話です。北斗市として取り組む政策はもっと具体的な提案です。私が減反政策の廃止という予測を立てた源泉は、上記の通り世界レベルの食糧事情の分析からですが、慢性的な食糧不足がもたらす、もうひとつの大きな状況は食糧価格の高騰です。食糧自給率40%弱(カロリーベース)の我が国にとって、これはまさに国難ですが、同じく自給率200%の北海道にとっては好機到来といえます。作った作物を高値で売れる販売チャンスということです。
 そのまさに書き入れ時に、十分な売り物を用意できないとすれば、実に惜しい話です。その恐れがあることを私は市議会で指摘したのですが、これが冒頭の発言につながる話だったのです。
 減反するということは、田を休ませたり転作することになります。休耕田としてしっかり手入れをしていれば、水田に戻すことは比較的容易ですが、耕作放棄地となって荒れてしまった田は1年では元に戻らないといいます。
 農業政策は短期間での転換が大変難しいものなのです。ですから政府が方針を固めるよりもさらに数年早く自治体として手を打っておけば、ロスを最小限にとどめて農家の収益向上も見込めます。
 例えば、学校給食で使用する米を100%地元産にするとか、水田を維持するために食用米より安い飼料米を奨励したりすることです。このために補助金などの形で市の予算を重点配分したとしても、10年後20年後にその時の農家がチャンスを掴んで高い収益を上げることができれば、税収として投資の回収ができます。

 道路や橋や建物を作ることだけでなく、将来の市場動向を予測して市民の所得を確保するためのソフトな投資をすることも立派な公共投資なのです。国から方針が示されるまでボヤッとしているようでは、地方分権も看板倒れと言わざるを得ません。
タグ:食糧 減反 農政
posted by しらいし at 17:38| Comment(1) | TrackBack(0) | 経済

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