前回の記事から、はや6ヶ月もブログを放置してしまいました。多忙故ではありますが、いささか反省しているところです。
2015年1月3日から5回シリーズで放送予定の、NHKスペシャル「NEXT WORLD 私たちの未来」という番組が、テクノロジーによって大きく変化する近未来世界をリアルに描き出していると、なかなか好評なようです。
残念なことに、私は第1回、第2回の放送を見逃してしまい、「第3回 人間のパワーはどこまで高められるのか」から見ています。
さて、個人的に大変気になっているのは「第4回 人生はどこまで楽しくなるのか」の内容です。番組宣伝やWebサイトによると、デジタルクローンというテクノロジーについて触れています。サイトでは「人生の記録をデータで保存し、死後、それをもとに、デジタル空間上に、意識・人格を再現しようという試み」という説明がありました。番組宣伝の映像では、死後に再生された母親が娘に「会いたかった」と語りかけるシーンがあり、なかなか印象的です。
10数年ほど前になりますが、これと似た概念について考えたことがあります。番組を見た後では単なるパクリ話になってしまうので、放送前日に慌ててこの記事を書いていますのであしからず。
以前、考えていたその概念というヤツですが、ヒトの五感の情報をいかにネットを通じて伝えるかという話が、出発点となります(ヒトの感覚は5つ以上あることが知られていますが、話を簡単にするためにここでは五感と表現します)。現在では色覚や聴覚について映像や音声として不完全ながらも伝えることができています。触覚や味覚、嗅覚、さらには内臓感覚や平衡感覚などもデータ化しネットを通じて伝送可能となった未来社会ではどのようなことが起きるでしょうか。
ヒトの様々な感覚を伝送でき、同時にヒトと同様な運動が可能なロボットが実用化されていれば、遠隔医療や危険作業に威力を発揮することでしょう。この場合、ロボットの方は全身である必要はなく、腕や目、耳、感覚器としての皮膚などが部分的に実現できていればよく、高コストでも実用化を急ぐ価値があるため、技術的にメドが付けば比較的早期に出現するのではないかと思います。
ある程度コスト度外視で実用化が進めば、小型化や低コスト化し、自立歩行が可能なヒューマノイド(人間型ロボット)が出現し、これをコントロールできるようになるでしょう。コントロールに際して、そのヒューマノイドの受ける様々な「感覚」を自分の身体でダイレクトに受け取れるわけですから、コントロールしているというより自分の分身と呼べるものになるでしょう。
こうして「もうひとつの身体」を手に入れることができるようになると、次には軍事利用されることでしょう。死を恐れない兵士ほど敵に回して厄介な相手はいませんから、命を危険にさらすことなく作戦行動をとれる「もうひとつの身体」は、まさに理想的な兵士であり、また高度で特殊な戦闘技術を持つ優秀な兵士を、消耗することなく戦地に送り出し続けることができるとなれば、軍の人員そのものを減らすことができるため、コスト削減にもつながる一挙両得なテクノロジーといえます。
軍事利用により、量産化による低コスト化が進めば、それまで導入できなかった分野でも「もうひとつの身体」を購入し、利用するようになるでしょう。
看護や介護の分野のみならず、受付や飲食店などの接客をともなうサービス業、様々な肉体労働、ついには自分自身の付き合いや娯楽、スキンシップやセックスまでも「もうひとつの身体」でこなすようになるかもしれません。
ここまでで、少し立ち止まって考えてみましょう。「もうひとつの身体」をコントロールするために、その身体の五感をネットを通して受け取り、そして「もうひとつの身体」をネットを通じて動かすわけですから、ヒトの生きていくために必要な感覚と行動の全てがデータ化されてネットを行き来することになります。好むと好まざるとにかかわらず、データに変換できない物理的な肉体そのものを除いた、情報としてのヒトの全てをデータ化しネットに載せることになるのです。ネットを介して複数の身体を持つ未来の社会では、感覚や記憶、自ら発する言葉や行動のデータ、人格の断片と行ってもよいそれらのデータを記録し拡散させる社会となることでしょう。
そのような社会で、人格の編集と再利用が行われるのは時間の問題です。
ネットと「もうひとつの身体」によって時間と空間の制約から逃れた人々にとって、社会を構成する個人とは、記憶や知識や経験などの情報が集積されネット上で自律的に活動する情報の集積体としての側面が強くなり、それがデジタルデータの集まりである以上、複製や編集、再利用することは容易になります。
ネット上に無数のデータ化された人格の断片が存在しているのに、つまらなルーチンワークのようなことや危険をともなうローテクな作業、公然と行えない不法な行いを、わざわざオリジナルの人格に人件費を支払って依頼することは不経済であるという考えに至るだろうことは容易に想像が付きます。
誰かが、その辺に行き交う人格の断片をコピーして組み合わせ、模造の人格を安価に創り出そうと試みる可能性は十分にあるのです。
そもそも、ITが出現する前から、人格のデータ化は進行してきました。ヒトは孤独であり、かつ孤独ではいられない生物です。生きていくために他者を必要とし、相互理解を得ようとします。しかし、互いの意識を共有したり融合したりすることはできません。そのために表情や身振り手振り、ふれ合い、そして言葉を発達させて互いの意思を確認し合おうとしてきました。やがて言葉は文字を生み出し、粘土板や木片、パピルス、羊皮紙、紙など記録するための媒体を発達させることにより、時間と空間を超えて意思を伝えたり記録できるようになりました。
紙の上に書かれた文字には、肌のぬくもりや柔らかさ、息づかいや表情もありません。その代わり、声も届かない距離と時間を隔てて自らの意思をある程度伝えることができる。受け取る相手にとって、その紙と文字は肉体から切り離された人格の一部となるのです。
そして、時間と空間を超えるということは、人格の源泉である肉体の生死と、情報としての人格の存在に時間差が生まれるということなのです。仮に、手紙を出した後すぐにその人が死んだとしても、それを受け取る方にとっては、生死を知らされない限りまだ生きていると感じて、手紙を読むことでしょう。物理的な肉体の死と、社会を構成する人格の死が同期しなくなるのです。
この傾向は、将来のネット社会にとってますます顕著になると考えられます。五感が行き交い記録されるネットにおいては、元の肉体が消滅してもなおネット上に莫大な量の個人の情報が残され循環すれば、肉体の死と情報体としての死は、もはや切り離されてしまうかもしれません。
人間とは何か、私達は何者で、どこから来て、どこへ行くのか。
哲学で長きにわたり議論され、どれほど語り尽くそうとも結論の見えない命題ですが、人格が肉体を必要とせず、データ化することが可能になるかもしれない未来のネット社会が到来したとき、私達全てに否応なしに突きつけられることなるだろうと考えています。
2015年01月25日

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