あけましておめでとうございます。
いつものことですが、またもやブログをほったらかしにしておりました。少し時間がとれましたので、昨年暮れのことを少々お話ししたいと思います。
昨年の11月29日に東京・品川のグランドプリンスホテル新高輪において、自由民主党立党60周年記念式典が行われました。私は自民党員ではありませんが、いろいろな巡り合わせで出席することになりました。
鉄道や飛行機での移動中は、溜まっている本を読むに絶好の機会なのですが、その時読んでいた本は「SEALDs 民主主義ってこれだ!(大月書店)」というものでした。自民党の記念式典に出席する道中で読むには、なかなかシュールな選択であったとは思います。
さて、私自身は概ね保守系の政治家だろうなと自覚していますが、だからといって同じ意見を持つ者同士だけで群れていても視野が狭くなるだけで、異なる意見や思想についても理解しなければいけません。そこで戦後70年という年にその運動で脚光と避難を浴びたSEALDs(自由と民主主義のための学生緊急行動Students Emergency Action for Liberal Democracy-s)の主張をちゃんと読んでみようと思い、前述の本を手に取ってみたのです。
■まずは賞賛したい
読んだ感想ですが、まずは彼ら・彼女らの活動に賞賛したいと思います。表明している意見の内容はともかく、眼前の社会問題について当事者としての自覚をもち、あれだけの運動・活動を繰り広げるのは大変だったと思います。
SEALDsのデモに色々と罵詈雑言を浴びせる大人達がいますが、しかし非難している方々は果たして彼らと同じように多くの準備を重ねて、炎天下に終日路上で自らの信条を表明するためにデモを行うことができますか?そのデモはちゃんと届出がなされた適法なもので、全ての国民に認められた権利でもあります。それを口汚く罵る姿に正義は感じられません。
しかしながら、この本はなかなかに読みづらいものでもありました。考えが異なるからではありません。最高学府で学ぶ彼らの主張に、それに見合った知性を見出せないからです。以下にそれを述べたいと思います。
■想像力の欠如
本書の16ページに、安倍総理は想像力が欠如している、という主張がありました。その文章を書いている方は、安倍総理も自分と同じく戦後生まれだが、自分には戦場での凄惨な状況が想像できる、知性に裏付けられた想像力がある、しかし総理にはそれがないから安保関連法案を通そうとするのだ、というものです。
そうかもしれませんが、この文章を書いた方もまた想像力が欠如していると思います。確かに、戦争は凄惨なものであり、よい行いではありません。戦わずに話し合いで問題を解決できれば、それが最善です。しかし、争いのある相手が常に話し合いに応じてくれるのか、という点に問題があります。
そもそも、話し合う余地がない、と考えている相手に悠然と「話し合いましょう」と問いかけて、双方が冷静になれるという事はちょっと考えにくいのではないでしょうか。SEALDsの主張に想像力が欠如しているな、と感じる点のひとつはこういった紛争の相手国の反応を考えない、誠実に話し合えばわかってくれる、という自分たちの理想や主張を無意識に押しつけるところが見えるからです。
相手の立場になって考える、というと相手の気持ちにより添って接する優しさのように理解する人が多いと思いますが、それは一面だけの見方です。
相手が熱くなっていて、まともに話せる状況ではないなら、距離を置くなりして冷めるを待つのもまた、相手の立場になって考えることになります。距離を置こうとしても相手が引かない、なおも攻めたてようとする場合、こちらもまた反撃する姿勢を見せて相手をひるませることも必要でしょう。それでもなお、ひるまず攻め込もうとするのならば相手も生かしつつ自らも生き残るために、適切な反撃をしなければなりません。こうして、双方が冷静になれるチャンスを待つことも大切なのです。
しかし、SEALDsに限ったことではありませんが、平和運動のようなことをされている方々に多く見られるのが、この「誠実な話し合いの押しつけ」です。冷静に誠実に話し合うことは大切ですが、こちらが話したいと思えば相手も合わせてくれる、という前提を無意識に持ってしまうところに、知性や想像力の欠如を感じるのです。
■強行採決って何だ?
この本の随所に踊っている単語のひとつに「強行採決」がありました。野党の理解が得られず反対が強まる中、与党議員のみで採決を強行した、というニュアンスでしょうか。
では、強行ではない採決って何でしょうか。全議員が賛成するということでしょうか。それは全体主義になってしまうのではないでしょうか。たった一人の反対に議会全体が左右されてしまうのではないでしょうか。これが極端な例だとするなら、何人の賛成が得られれば強行採決ではないのでしょうか。
SEALDsがデモで行ったコールに「民主主義ってなんだ」というものがありましたが、多数決は民主主義というシステムにおいてきわめて重要な要素です。多数決だけが民主主義ではありませんが、しかし軽視してはいけないものなのです。
ついでに言うと、強行採決というものは野党にとっても都合の良い仕掛けです。つまり、いずれにしても採決で負けてしまう野党が、世間に対して抵抗する姿を十分に見せることができる、政治的パフォーマンスの側面があるのです。そのため過去には、採決の時間を野党が誤解していたために欠席してしまい、これに気を遣った与党が強行採決のやり直しをした、と思われる事態も起きています。こうした大人の悪知恵を知ることもまた大切です。
■語られた言葉の真意は
本書の14ページには、ワーテルローの戦いでナポレオンを破ったウェリントン公の言葉が引用されていました。「本当に勝ったのは、戦いをしない国だ」というものですが、これを幾多の戦場を見てきた彼にして戦争しないことの重要性を悟っていたのだと引用した著者は評しています。
しかし、ウェリントン公がそう語るのは、単に戦争の悲惨さを否定するという単純な意味ではないだろうと私は思います。彼は政治家としても首相まで務めましたが、生涯軍務を愛し、あらゆる意味で大英帝国の軍人と呼ぶべき人物でした。
ウェリントン公の得意とした戦い方は、用意周到な防御戦でした。孫子は「善く戦う者は、先ず勝つべからざるを為して、以て敵の勝つべきを待つ」と述べておりこれは戦う際にはまず陣を固めて負けない体勢とし、その上で不利な状況で敵が飛び込んでくるのを待つというもので、まさにウェリントン公が体現した戦い方です。その孫子はまた「百戦百勝は善の善なる者に非ざるなり。戦わずして人の兵を屈するのは善の善なる者なり」とも述べています。そこにはいずれも如何に戦争に勝つのか、そしてそもそも勝利とは何かという視点があり、ウェリントン公も同様な視点を持っていたと思います。だからこそ「本当に勝ったのは」という勝ち負けの見方をしているのでしょう。
付け加えると、ウェリントン公は晩年に陸軍総司令官に就任し死去する1852年まで務めましたが、シビリアンコントロールを嫌い軍制改革に慎重であったことも覚えておきたいところです。
このように、歴史上の著名人の発言を取り上げるならば、その人物の足跡をも理解した上で引用しなければそのニュアンスは掴めないと思います。安易な引用は、一歩間違うとデマと同じ効果を持ってしまいます。知性ある訴えをしたいのであれば、大変でしょうが学ぶ努力を怠らず、歴史から本当の教訓をくみ取るよう研鑽を積んでもらいたいと思います。
■民主主義って何だ?
デモではこのコールの後に「これだ!」と叫んでいました。本のタイトルも「民主主義ってこれだ!」でしたが、これってどれのことでしょうか。
このSEALDsの皆さんの感性は、若いと同時に未熟だと感じます。彼らのデモや本での主張に、民主主義というシステムや意味について深い考察や議論は見当たりません。強いて言えば「アベ政治は俺たちの感性に合わないんだ!」ということを主張しているように感じます。
しかしながら、SEALDsの主体は大学生であると考えますが、それならば大学生としての知性をもっと見せて欲しいのです。感覚や雰囲気で叫ぶだけなら、大学まで進学しなくてもできます。今までのところ、SEALDsの主張に野党や従前の市民運動家などの主張を超える、知的で深みを感じさせるようなものは見当たりません。かわりに所々に見られるのが「バカな俺たちにもわかる」というニュアンスをもったさまざまな言葉や姿勢です。
でもSEALDsの皆さんの大半は、やはり大学という最高学府に学ぶ大学生なのです。中学生程度の知識と感覚でいられては困ります。「民主主義って何だ?これだ!」という極めて短絡的なコールに、熱意は感じても知性を感じることはできません。
さらにもうひとつ厳しいことを述べますと、SEALDsの皆さんは今までにないスタイリッシュなデモをしようとしていたようですが、何かの政治的な主張を短いフレーズにしてリズミカルにクールに訴えるというスタイルは全くダメとは申しませんが、あまり感心できません。というのも、過去の様々な戦争でもわかりやすいリズムやメロディーで戦争や敵国への憎悪を煽った例は枚挙に暇がないのです。わかりやすさは疲弊している人々の思考を妨げ、感情に訴えることによって理性を失わせ残虐な行いに誘うこともまた可能であり常道なのです。
■礼節と教養を
最後にSEALDsの皆さんに求めたいのは礼節です。デモやネット上で彼らが発した様々な罵詈雑言は見るに堪えないものです。自らの主張が正義であり正しいものであり、相手のそれは不正義であり誤りであるとしても、それが相手を口汚く罵ってよい理由にはなりません。知性に裏付けられた主張をするのであれば、冷静さは不可欠であり相手にもまたそれを求めて話し合いがしたいのであれば、罵詈雑言を発することは間違いです。
そして、相手が罵詈雑言を発するから自分たちも応戦するのだというものであっても、やはり話し合いにはなりません。先に「誠実な話し合いの押しつけ」について述べました。それでもなお話し合おうとするなら待ったり耐えたりしなければなりません。知性と冷静さに併せて忍耐力も必要なのです。SEALDsの皆さんは、長く大変な準備をし長時間のデモにも耐えたのですから忍耐力は備わっているはずです。それをぜひ知性と結びつけて頂きたいと思いますしできるはずです。
そして教養を身に付けて下さい。教養を身に付けるためには、まずはたくさん学ぶことですが、それだけでは足りません。莫大な知識を取り込めば、それらの一部が互いに矛盾していることを知るはずです。皆さんが国会議事堂前でデモをしていたとき、年季の入った方々もたくさんいたはずですが、それらの自称平和運動家の一部は世界の矛盾を認めない人たちです。今回の例では「9条守れ!」と叫んでいたようですが、9条も含む日本国憲法は我が国の国内法であって、他の国々には何ら遵守する義務はありません。だから私たち日本人が戦争を放棄しても、それは他の国々が同じくそうすることを意味しないのです。しかし、そんなことを言って戦争を肯定し続ければ、いつまでたっても世界から戦争はなくなりません。
理念と現実の狭間で悩むこと、これは教養へのステップです。世界は矛盾装置であることを受け入れるのです。矛盾を受け入れるからこそ、進歩を求めて学び続け前進することができるのです。SEALDsの皆さんの中から、将来我が国を代表するような真の知識人が現れてくることを切に願っております。
2016年01月04日

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