2011年08月20日

孤独の涵養

 最近、友人達と「孤独」という概念について話し合う機会があった。そもそものきっかけは、そのうちのひとりが「孤独のススメ」というエッセイを著したからだが、それぞれがもっている孤独という概念の違いを大いに楽しんだ。

 孤独とはなんだろうか。どういった状態を指すのであろうか。単にひとりでいることを孤独というなら、多くの人は孤独な状態を、毎日数時間は過ごしているだろう。
 数時間のみでは孤独という状態を満たしているわけではない、ということであれば、では何日ひとりでいれば孤独と呼べるのだろうか。数日か、数ヶ月か、数年か。孤独とはそんな物理的な時間の問題なのだろうか。
 いや、孤独とは他者とのコミュニケーションがない状態をいう、という人もいるだろう。では、昔に比べて携帯やネットなどコミュニケーションのツールはたくさんあるのに、孤独を感じる人がいるのはなぜか。
 だから、孤独とは心の状態を指すのだ、と主張する人もいるだろう。ひとりでなくても、他者とのコミュニケーションをとっていても、心の交歓がなければ孤独だという話だ。これは、なかなか核心を突いているように思うが、果たしてそんなに単純な話だろうか。

 孤独、という言葉は時に社会問題などとセットで使われているが、孤独とはそんなに簡単に定義できるものではないと思う。強いて言えば、人間は皆、自分自身の五感で捉えた世界しか認識できないのであるから、もともと孤独な存在なのだと思う。相互理解などは不可能な話であり、状況から相手はこう考えているだろうと自分中で解釈している。その相互の解釈がおおむね一致している状態を指して「互いに理解している」と感じるのだと思う。
 そうであれば、互いの解釈の精度が高ければ、齟齬もなく交流でき孤独は感じなくなる。その精度が低ければ、互いの事が予測不能となり距離感が出てくるのだろう。結果、物理的に近くにいてさえ、孤独感をたっぷり味わうことになる。
 互いを解釈する精度を高めるとしたら、そこに必要なものはなんだろうか。ひとつは知識や教養であろう。相手の表明していることを理解できなければ、元も子もない。
 また、寛容さも必要になる。解釈を誤り、予測と違う反応が返ってきたとき、自分と他者は違うものだという当たり前のことを受け入れ、それを楽しむことができれば、精度を高めるための経験を得ることができるが、不寛容であれば不愉快さだけが残る。
 そしてもっとも重要だろうと私が考えているのが、自身の孤独をしっかりとした基準にすることである。
 他者をなるべく正確に捉えるためには、しっかりした基準点が必要だと思う。その基準点は言うまでもなく自分自身である。その基準点には他者の入る余地はなく、真に自分自身だけで構成されている。
 電子工学の世界では、回路が安定して動作するために基準電位としてのグラウンドが非常に重要になる。このグラウンドのレベルが回路上の場所や時間によって変動すると、安定動作は見込めなくなる。人間関係においてこの基準電位にあたるのが、個々人の「孤独」であると思う。孤独が分からなければ、他者との関係性も計れないのである。
 個を確立することとは、自身の抱える孤独を受容し、さらにそれを肥らせ安定させることだと思う。孤独をネガティブに捉え、これを遠ざけることはすなわち、自己の安定を失わせることになるだろう。
 孤独を肥らせるためには、たくさんの本を読み、芸術や文化に触れ、それから自己と向き合い、いやな面も含めて自己を受け入れ続けることが必要だと思う。
 結局のところ、自分自身を鍛えていくことが肝要だ、というよくある話になるのである。
タグ:文化 孤独 教養
posted by しらいし at 00:53| Comment(0) | いろいろ
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