2011年11月30日

「安全・安心」というお題目

 東日本大震災以前からそうですが「安全・安心」といった標語がもてはやされています。様々な公的発言のなかで安全・安心という語を添えると、それは正論であり正義であるかのような雰囲気が出ますが、しかし私はかなり以前からこの言葉がとても嫌いです。
 というのも、この語呂の良い言葉が出てくる度に議論はそこで終了、安全・安心に勝る価値など無いのだと言わんばかりの論調になることが多いからです。
 そもそも安全・安心とは何を意味するのでしょうか。安全とは、具体的な危険性が排除されている状況を指し、安心とは危険にさらされる事を考慮しなくても良い心理状態のことだと考えます。一方は状況を、もう一方は心理を表す言葉であり、字面は似てますが本来は異質な言葉です。この二つの言葉をくっつけてしまうところに私はちょっとした乱暴さを感じるのです。

 いや、幸せな生活を営むためには安全も安心も大切な要素ですから、その二つが結びつくことは結構なことであり、疑問を持つ方がひねくれていると思われるかもしれませんが、では安全・安心とひたすら連呼すればそれで安全で安心な状態になるのでしょうか。
 安全とは具体的な危険性が排除されている状態、と前述しましたがではどんな危険性を排除すればよいのか、どういう方法で排除すればよいのか、それ以前に危険性とは何か、ということを考えなければなりません。今、あちこちの自治体で大震災の反省から防災計画を見直しています。見直しそのものはいつでも大切なことですが、問題はその中身です。それは津波対策を訴える人が実に多いという点です。そして、想定外は許されない、という論調です。

 あれだけの大きな津波を見せつけられたのですから、当然の反応なのかもしれませんが、津波だけが自然災害ではありません。例えば、私の住む北斗市にとっては、もちろん津波の危険性は存在しますが、もっと危険な災害は駒ヶ岳の噴火です。津波に目を奪われて、噴火の対策がおろそかになっては本末転倒です。
 さらに、想定外は許さないという風潮は、私から見ると新たな人災です。防災は想像力が大切です。様々な災害を想定し、そこからくる被害を見積もることが、計画立案のための重要な要素です。しかし、想定したことに全て対策を打てるかというと、そんなことはありません。利用できる予算も資源も限りがあるのですから、想定したところで何も準備できないし、本当に起きたらお手上げという状況もあるのです。安全は至高のものという思想があるのか、安全・安心を訴え始めると止まらない人はたくさんいますが、安全の確保にはコストがかかるのです。そして、たとえ安全のためであっても、あまりにも大きなコストは経済活動を阻害し、社会のどこかの誰かの生活を追い詰めることになります。その人たちにとってそれは安全で安心な社会でしょうか。カネで命は買えないとか、カネよりも命が大切だという意見はもっともかもしれませんが、そのカネが足りなくて死を選択する人々もいるのです。
 それでは、どうやったら安全を確保して安心な生活を送れるのでしょうか。まず必要なことは、危険性を正しく分類し評価することです。想定しうる全ての危険性について対策を打つことは不可能なのですから、何について対策を立て、何が起きたら諦めるのか、を議論することです。諦める、ということは無責任のように感じられるかもしれませんが、諦めない、つまり対策の上限を定めずに努力するかのような姿勢の方がはるかに無責任だと考えます。よく、費用対効果という言葉も用いられますが、これは費用に対する効果が大きい対策を採用するということになりますが、つまり効果が費用に見合わないものはやらない、諦めるということを意味しています。上限を定めてそれ以上はやらないという考え方は正しいのです。
 次に、一度決めた対策もある程度時間が経過したら見直す、ということです。これは、科学の発展や社会の変化が常にあるからです。例えば、緊急地震速報。誤報も多いとの批判が絶えませんが、そもそもこんな速報を出せるのは我が国だけです。このシステムがあるおかげで、地震の「直前」に身を守る行動をとる「チャンス」が生まれます。速報を得られない他の国では地震を感じてからしか行動できません。これは技術の進歩がもたらした新たな状況であり、選択の幅が広がったことになります。

 さて、今度は安心について考えてみますが、安全であっても安心を得られるわけではありません。安全を確保してもそれを知らなければ安心できません。知ったとしても信用できなければやはり安心できません。反対に、安全でなくてもそれを知らない、または安全であると思わされていれば、安心してしまうでしょう。安心を得るためには、安全を正しく理解することが肝要であるといえます。
 また、安全はある程度数字で表現できますが、安心は数字で表現しにくいという点も理解しなければなりません。正しく理解するためには、固定観念を持たず、常に学び議論を深めることです。
 安心についての経済性についても述べなくてはいけません。安全はコストがかかるということを述べましたが、安心については経済を拡大する効果があります。例えば、治安が悪いと感じると日常生活のあらゆる面で防犯を意識しなければならなくなり、そのための手間やコストがかかります。医療や社会福祉が悪化していると感じると、怪我や病気に対して臆病になり、活発な活動を控えるようになります。 安心を得られないと、あらゆる行為に保険をかけなくてはいけなくなり、何をするにも身の安全を守るための行為が伴うようになります。つまり高コスト構造になります。
 安心な社会は、経済活動も活発になる可能性が高いと言えます。

 冒頭に、安全・安心という言葉は嫌いだと書きました。わかりやすいお題目も大切かもしれませんが、安全であること、安心を得ることを深く理解しようとせず、安全・安心と連呼し異論を封じる。そのような思考停止状態ともいえる状態は安全にも安心にも値しないのです。
 少なくとも何らかの責任ある立場の方々には、少々冷静になって頂きたいと思います。
タグ:安心 安全
posted by しらいし at 01:35| Comment(3) | 政治・行政
この記事へのコメント
安全と安心という意味、その関連がよくわかりました。

この言葉を使うときには、実行力と責任が伴う
ということも。
Posted by at 2011年12月09日 11:13
コメントいただきありがとうございました。
政治や行政、市民運動の現場では、こういった「標語」が、まさに踊っています。
Posted by しらいし at 2011年12月10日 16:11
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