2012年01月02日

わかりやすさの功罪

 明けましておめでとうございます。

 昨年は、我が国においては東日本大震災、自分自身にとっても北斗市議会選挙の落選など様々な出来事があり、いろいろと考えさせられる一年でありました。
 さて、元旦早々ですが、BSジャパンにて「池上彰の現代史講義」という番組が再放送され、昨日今日と全てではないですが楽しく視聴しておりました。池上彰氏といえば、ニュース等で伝えられる難解な国際情勢や事件等を分かりやすく解説することで大変有名な方です。この池上氏の番組を視ながらいくつか抱いた印象を書きたいと思います。

 番組中で、池上氏が講義の内容についての感想を聴講生に求めるシーンがありました。その聴講生は「世界史では様々な出来事の繋がりが分かりませんでしたが、現代史を学ぶことでそこがよく分かりました」というような発言をしました。やはりというか、我が国においては歴史と言えば暗記物といったような受け止め方がされているということなのでしょう。
 歴史とは、暗記物の学問などでは断じてありません。歴史とは、この世界の全ての人々の営みを綴ったもの、しかしそのままではあまりに膨大な記録になってしまい参照不能な記録になるので、しかたなく代表的な事件や出来事などについての記述を中心に綴ったものであると思います。
 例えば、昨年NHKが制作した「江」という大河ドラマでは、大阪夏の陣において淀殿が自身の様々な決断について妹の常高院に辛い思いをさせたと詫びるシーンがありました。浅井三姉妹の深い絆を表現するシーンであると思うのですが、たまたま視ていた私は「ふざけるな」という感想を持ちました。まぁ、ドラマに文句を言っても無意味なことかもしれませんが、徳川との戦争の決断によって辛い思いをしているのは、浅井三姉妹ではなく戦の矢面に立たされている大勢の人々なのです。淀殿が意固地になったりぐずぐずしている間に、矢に撃たれ火に焼かれ斬り殺されている無数の兵士や、その戦の巻き添えになって命や財産を失う無辜の民衆こそが本当に辛い思いをしている人々なのです。
 歴史を学ぶ時には、こういった有名人や英雄などがその中心になりがちです。限られた時間で学ぶためには仕方のないことでもありますが、その人物の功績は、その後ろに大勢の人々の営みがあってこその功績であり、記録されない無数の人々の生き様に思いをはせながら学んでほしいと思うのです。

 また、これは池上氏だけの話ではありませんが、最近「わかりやすく」ということがもてはやされているように感じます。難解な出来事を分かりやすく解説することはとても重要です。しかし、難解なものはやはり難解であり、それをわかりやすくするためには、いくつもの要素を省いてシンプルな説明にしなければなりません。つまり、真実から離れていくということなのです。
 わかりやすさとは真実に近づくための最初の一歩ではあるでしょうが、決して真実とイコールではありません。難解な事を理解するためには、最終的には難解な姿のまま受け入れなければなりません。
 難解なものを理解するのは大変なので、平易なまま知ろうとする世の中の流れを私は大変危惧しています。自分たちに降りかかる難問を簡単に知りたいという要求は、いつか難問を簡単に解決してくれる人を求めることにつながるかもしれません。国の難問を簡単に解決しそうな主張をした人を選挙で選び、権力を預けた結果、世界を巻き込む戦争を引き起こしたのは、ほんの70年ほど前の出来事ことです。
 アドルフ・ヒトラーは選挙で選ばれ、国会の議決の下に総統になったのです。当時のドイツ人達は大変疲弊していたので、祖国を立て直してくれそうなヒトラーに権力を与えたのです。我が国でも、戦争に突入してしまった原因のひとつは、当時の政権や軍に対して早期に充分な批判ができなかったことだと私は考えています。軍も行政も巨大な組織です。暴走を始めてしまうとなかなか止めることはできません。早期に食い止めるためには、常にその政策や施策を「正しく批判する」必要があります。批判と非難は違います。正しい批判を行うためには、それがどんなに難解であって学ぶ必要があるのです。

 平和の難解さが戦争の残虐さを覆い隠している、という言葉を見たことがあります。我が国では、太平洋戦争の反省からか、学問としての戦争を肯定しないために戦争の理解が乏しくなり、もはや戦争の入口がわからなくなっていると思います。数年前に北朝鮮の拉致された人々を取り戻すために強烈な経済制裁を求める世論が高まったことがあります。特に経済封鎖を行って北朝鮮を締め上げろという主張には大変危険を感じました。私は拉致被害者を見殺しにしろと言っているのではありません。拉致問題解決のためにきちんと戦争をすることまで考慮しているのかどうか疑問だったからです。
 恐らく、当時そのような強攻策を唱えた識者の方々は、戦争せずに問題解決を図る方策が経済封鎖なのだと主張したのでしょうが、歴史上数多く行われた経済封鎖のうち相手を屈服させて目的を達した例は片手で数えられるほどしかないのです。大半のケースでは、目的を果たせず封鎖を解除するか、戦争にエスカレートするかです。ですから、経済封鎖とは次のオプションに戦争を用意しているという相手国へのメッセージでもあり、事実上の宣戦布告とも受け取られるのです。もしあの時の我が国が、戦争をする準備も理解もなしに不用意な経済封鎖を実行したとして、それに対して北朝鮮が宣戦布告とイコールであると理解し、防衛のために先制攻撃を行った場合、国際世論はどちらを支持するでしょうか。
 戦争と平和の難解さを理解しない、理解しようとしないことは、戦争の入口を見いだせなくなることであり、よく我が国では戦争に「巻き込まれる」という表現を用いられますが、巻き込まれるどころか、そうとは知らずに戦争を引き起こすことだってあるのです。

 昨今の我が国は、難解な事を理解しようとせず、民心は移ろいやすいように感じます。みんな平穏に幸せに暮らしていきたいと願っていると思います。そのためには、困難な社会問題に立ち向かわなくてはいけません。難問を解決するためには、学ぶ困難さを受け入れなければいけないのです。
posted by しらいし at 17:17| Comment(0) | 政治・行政
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