本当に、我が国のマスコミやコメンテーターの先生方、政治家とか専門家ということになっている方々は、安全保障に関して弱い向きが多いです。弱いだけなら仕方ないかとも思いますが、理解が及ばないのに分かったように自信たっぷりと妙な自説を展開するから、いつまでたっても話がまとまりません。
我が国は、集団的自衛権というものを戦後ずっと行使し続けてきました。それだけでなく、世界平和を希求する憲法を持ち国連による平和的な紛争防止や解決を重視する我が国の立場やあり方を考えた場合、集団的自衛権を否定することはできないはずです。
国連による平和構築と集団的自衛権は切っても切れない関係
実は集団的自衛権という概念は、国連憲章第51条で個別的自衛権とともに定義されています。その条文を以下に引用します。
この憲章のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない。この自衛権の行使に当って加盟国がとった措置は、直ちに安全保障理事会に報告しなければならない。また、この措置は、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持または回復のために必要と認める行動をいつでもとるこの憲章に基く権能及び責任に対しては、いかなる影響も及ぼすものではない。
個別的自衛権という概念は国連憲章成立以前から国際法上の国家固有の権利として承認されていましたが、集団的自衛権についてはこの憲章によって初めて定義されたと考えられます。国連はなぜこの権利を必要としたのでしょうか。
これには、国家間の軍事的紛争の発生とその経過、結末を考えなければなりません。もし、ある2国間で軍事的緊張が高まり武力衝突してしまったとします。その衝突した両国が共に国連加盟国だった場合、国連は安全保障理事会で、停戦や兵力の引き離し、和平に向けた様々なプロセスを用意する、といった措置をとることになっています。
しかし、その措置をとるためにどれくらいの時間がかかるのでしょうか。武力衝突が起きたら次の週の月曜日にでも国連軍が大挙して出動して解決するとでもいうのなら大変結構なことですが、どう考えても無理な相談です。
つまり、国連の措置には時間がかかり、その間に強い方の国が他方を殲滅してしまったら意味がなくなってしまうのです。だから国連の措置が効力を発するまで、弱い国は他国と軍事同盟などの関係を構築して集団で自衛して時間を稼ぐ必要がある、という考え方が集団的自衛権につながるのです。
国連にとって加盟各国が集団的自衛権を行使することは、重要な前提の一つであるということなのです。
日米安全保障条約は集団的自衛権そのもの
日米安全保障条約(以下、日米安保条約と称します)に限らず、相互防衛を約束する軍事同盟は集団的自衛権そのものと言えます。植民地主義や帝国主義的な国家間競争が支配していた昔なら「自衛的」じゃない攻撃的・侵略的な軍事同盟もあり得たでしょうが、21世紀の国際社会では集団的自衛権の表現型としての軍事同盟以外は難しいと思われます。
日米安保条約は相互防衛ではなく、米国が我が国を防衛するだけの片務的安全保障条約と主張する方もいますが、実態は米国の軍事力を我が国の防衛に利用する代わりに、我が国を戦略根拠地として提供することにより、米国の国益を守っているのです。ですから、日米安保条約は片務的と言うより非対称的な軍事同盟なのであり、集団的自衛権の一つの行使であるのです。
保持すれども行使せずは詭弁
上記のような集団的自衛権についての原理や原点についての議論はあまり見られず、枝葉末節な各論だけが目立ちますが、こうなってしまった原因の一つはかつての自民党政権時代に「集団的自衛権について、我が国はそれを保持しているが行使できない」という詭弁を弄してしまったところにあると考えています。情けないことに野党やマスコミなどもその政府見解を屁理屈であると見抜けずに議論の応酬を続けてしまったため、もはや屁理屈と屁理屈の競い合いになってしまっています。
しかし、我が国は法治国家ですから法的根拠なしに軍事力を利用するわけにはいきません。そして世界の情勢は刻々と変化しており、いつまでも世界に通用しない屁理屈合戦を続けていては、肝心なときにたくさんの人命という高い授業料を払っていろいろと学ぶことになるかもしれません。