2015年02月04日

本は偉大な我が師匠 〜私の政治の原点A〜

 いわゆる「本の虫」と呼ばれるような読書家と比べれば、私の読書量は少ない方だと思いますが、それでも本なしでは生きていけないと思うほどには読書しています。
 もともと海上自衛隊での専門職種は「電子整備」でしたので、技術書などはよく読む方ですが、暇さえあれば様々な本を読みます。今まで読んだ本のうち、これを読んでいなければ今の自分はない、と思えるほどの本をいくつか紹介したいと思います。

誤りの相対性(アイザック・アシモフ)
 全17編からなる科学エッセイ集で、本書に収録されている最後のエッセイがタイトルにもなった「誤りの相対性」です。他の16編が科学の諸分野を扱っているのに対し、これだけは教育の問題を取り上げています。
 ソクラテスにはうんざりだ、という皮肉を込めた毒を吐くところから始まり、地球が平らであるとは誤りで丸いが正しいという常識に対して、地上に立って肉眼で見渡す限り、地球が平らだという理解はおおむね正しく科学的な客観性があると論じます。
 しかし、アシモフは地球が平面だと主張しているわけではありません。現実の地上は山や丘、谷や川など変化や起伏に富んでいて平面ではないのに、それらの地形をならせば平面になるのではないかという古代人の推論を指して、その時代の科学力を考えれば充分に客観性があると説いているのです。
 アシモフの論点は「正誤の相対性」です。正誤の関係は絶対的ではなく「その答えはいかに真実に近いか」という相対的な関係なのだと主張しているのです。
 そしてアシモフは学校のテストというシステムに言及します。テストでは正解以外はすべて不正解となるが、それが乱暴だと説きます。
 例えば1+1は2が正解、それ以外は不正解と評価されます。その通りと思われますがアシモフは、もし答えを2ではなく整数と答える子供がいたらどうするのか、と提起します。テストと答えというルールの中では、2と答えなさいと教えるだろう、しかし整数と答えた子の数学的センスと意欲は明らかに2と答えた子よりも優れている。整数どころか偶数と答える子が現れたらどうするのか、これは知的挑戦の萌芽ではないのかと。
 テストと答えというルールや仕組みは教師にも生徒にも便利なシステムだが、それに固執すれば知性を育むことはできない、正誤の関係は連続しており無数の「より真実に近い答え」が存在する。しかし、これに対応することは教師にとって大変な負担であることは理解するが、だからどうだというのか、教育とは困難な仕事なのだ、とアシモフは厳しく言い切ります。
 知性とは、教養とは何か。それを身につけ、または育むことはいかに困難でありしかし必要なことであるのかと、アシモフ博士に檄を飛ばされた気持ちになりました。

ローラ、叫んでごらん(リチャード ダンブロジオ)
 「ローラ、叫んでごらん フライパンで焼かれた少女の物語」というちょっと長いタイトルの実話に基づいた本です。
 主人公のローラは、両親に虐待され1歳半の時にフライパンで焼かれました。異変に気付いた警官に救出されるも、心と体に重い障害が残り、14歳になるまでしゃべることもできず生きる屍としか表現できない状態でした。
 そんなローラが、治療に当たった著者と、献身的という言葉では全く足りないくらい慈しみ尽くした沢山の修道女たちによって人生を取り戻す物語です。
 この本にはとてもショックを受けて、1週間ほど何も読めなくなりました。身動きもせず感情も表さないローラが、困難を克服して看護婦を目指すラストに「人は救えるんだ」という希望や、「一人を救うために、これほどの手を尽くさなければならないのなら、救いの手が差し伸べられないたくさんのローラがいる」という虚脱感、修道女たちのおよそ人間とは思えないほどの無償の愛など、様々な思いに苛まれました。
 私たちの社会にも、不幸や困窮に身を沈めている人々はたくさんいます。そんな人々の救済を諦めてしまえば一人も救えませんが、たとえ微力でもできる限り問題に取り組めば少しは救えるかもしれない。その困難な仕事の最前線で奮闘している「修道女」のマネさえも私にはできませんが、政治の力でサポートすることはできるかもしれない。そういう思いが私の中に生まれました。

精神の危機(ポール・ヴァレリー)
 ポール・ヴァレリーは19世紀末から20世紀前半まで活動した、フランスの作家にして詩人であり、知識人です。
 私が20才になったばかりの頃だったと思いますが、ふとしたきっかけでこの本に収められている警句を目にしました。
 曰く「平和の難解さが、戦争の残虐さを覆い隠している」というものでした。
 平和を維持する外交上のプロセスや、日常生活を維持するための様々な行政の手続きは、ともすると退屈で難解なものに感じます。そんな年月を重ねるにつれて、人々の間で戦争のロマンが色づいてきます。
 昨今の尖閣諸島を巡る問題を見ても、海上保安庁の巡視船が領海侵犯を繰り返す中国の公船を実力で排除せず、併走しながら領海外へ立ち去るように呼びかけるだけの状況に、フラストレーションを感じる人は多くいます。しかし、海保の対応は国際法に照らしても適切なものであり、武力を行使して鮮やかに排除したりすれば、一時の爽快感と引き替えに取り返しのつかない事態を引き起こします。
 84年も前に発せられたこの警句は、現在社会においてますますその価値を高めていると感じます。
 私は元自衛官として、様々な武器の威力を知っています。およそ武器というものは非人道的で破壊的なものです。ひとたび牙をむけば、人間の肉体など形もとどめないほど引き裂きすり潰すことができます。その死と破壊の場にロマンなどひとかけらもありません
 この警句は私に、安全保障に対するリアリティを植え付けました。

 この他にも紹介したい本はたくさんありますが、上に挙げたこれらの本には、まさに私の人生を決めたと言ってもいいくらいの重大な影響を受けました。
 以前、大学の教授たちと話した折りに、最近の学生は本を読まないと嘆いていました。本は人生を豊かにしてくれます。特に若い方々には1冊でも多く本を読んでいただきたいと願っています。
posted by しらいし at 21:40| Comment(0) | TrackBack(0) | いろいろ

2015年02月03日

事に臨んでは危険を顧みず 〜私の政治の原点@〜

 いろいろ思うところがありまして、私自身の政治の原点を少し整理してみたいと思います。

 私が海上自衛隊に入隊したのは昭和63年4月5日のことでした。もともと自衛隊に入隊する気はなく、なりゆきで試験を受けましたが、経済的にはあまりよい状況ではなかったため、いずれにしろ進学できるような状況ではありませんでした。
 しかし、私自身は家の経済状況を顧みたわけでも、自衛隊を積極的に目指していたわけでもなく、自衛隊函館地方連絡本部(略称・函館地連。自衛官の募集業務などを担当しています。現在は地方協力本部と改称されています)の募集担当者に手渡されたパンフレットの初任給に目がくらんで志願しました(11万少々の金額でした。浅はかですね)
 そんなわけで、たいした目的意識も無く、うっかり入隊してしまった私でしたが、最初に送り込まれた場所は、海上自衛隊横須賀教育隊というところで、第261期練習員という身分になりました。着隊から数日の間に私物は送り返され、頭は角刈りにされ、全員同じ青い作業服で不揃いな隊列を組み、入隊式の演練(自衛隊用語で練習の意)を繰り返しました。
 入隊式では、全員が声を合わせて次のような宣誓文(服務の宣誓)を読み上げます。

私は、わが国の平和と独立を守る自衛隊の使命を自覚し、日本国憲法及び法令を遵守し、一致団結、厳正な規律を保持し、常に徳操を養い、人格を尊重し、心身をきたえ、技能をみがき、政治的活動に関与せず、強い責任感をもつて専心職務の遂行にあたり、事に臨んでは危険を顧みず、身をもつて責務の完遂に務め、もつて国民の負託にこたえることを誓います。

 この宣誓書を初めて読んだときギョッとしたものです。事に臨んでは危険を顧みず、身をもって責務の完遂に努め・・・って、これって任務のためなら死んでもかまいませんって事じゃないか、ということに気付いたからです。ヤバいところに来てしまった、と気が付いても後の祭り。宣誓し、宣誓文に署名捺印して、白石2士(2等海士の略で昔の2等兵みたいな階級)というヒヨッコ海上自衛官の一丁上がりというわけです。
 その後に続く4ヶ月半の地獄の訓練の話は次の機会に譲りますが、この宣誓については繰り返し考えることになりました。
 身の危険も顧みず遂行する任務とは何か、命を捧げて守らなければならない国家とは何か、そんな厳しい宣誓をしてまで任務を果たそうとする自衛隊とは何か、といった具合です。
 その年の8月に横須賀教育隊での練習員課程を修了し、青森県大湊の第32護衛隊「護衛艦おおい」に初任海士として配置されました。海の世界は初めて見るものばかりで、とても楽しいこともありましたが、艦の仕事はとても厳しく辛い日々でもありました。
 そんな護衛艦勤務を過ごしていたある日、海も天気も穏やかで、艦は三陸海岸の沖を北上していました。私は、たまたま甲板上に出たのですが、そのとき目に飛び込んできた三陸海岸の景色は、それはそれは荘厳で息をのむほど美しいものでした。
 しばらく見つめていて、そしてふいに気付いたことがありました。「これが自分たちの国なんだ・・・」自分が何のために危険な誓いを立てたのか、自分なりに理解した瞬間でした。この美しい国土と、そこで生まれ育って生きていく人たちを守るために自分たちがいるんだという実感でした。
 もちろん、その時はここまで明確に悟ったわけではありません。後になって振り返ればこんな感じだったということです。

 私たちは皆、故郷の風土とそこに積み重ねられた歴史や伝統に大きな影響を受けながら成長し、暮らしていきます。人はただ人のみで人となるのではなく、自らを包むあらゆるものによって自己を形成し、認識し、生きていくのです。故郷を守ることは自分を守ることになるのです。

 政治の世界とは、時に論理が通らず無理がまかり通る、権謀術数の濁った海と思えるときがあります。しかし、命を捧げる誓いを立てた身にとって、そんな政治の海など恐るるに足らず。私たちの故郷を守るために行動し、誓いを果たし続けることが私の政治家としての原点のひとつなのです。
 
posted by しらいし at 00:49| Comment(0) | TrackBack(0) | いろいろ

2012年08月29日

そのコメント、拡散しても大丈夫ですか?

 このところ、竹島への韓国大統領上陸に端を発して、日韓で激しい外交上の応酬が続いていますが、その影響でネット上でも相手を激しく罵倒したり武力攻撃を求めるコメントを多数見かけます。
 曰く、「南朝鮮人と交流する必要はない」とか「自衛隊が出動して竹島を奪還しろ」など、そしてまともな識者が冷静かつ戦略的な行動を提言すると「韓国の口車に乗る気か」とか「そんな弱腰が戦争を引き起こす」だとか、ほかには単なる罵詈雑言とか、とかく過激なコメントが盛りだくさんです。

 ネット上で過激な発言が目立つのは今に始まったことではなく、大昔のパソコン通信の頃から相変わらずで、どうも面と向かっては言えない激しい言葉も、ネット上では心理的なハードルが低くなって言えてしまう人が多いということなのでしょう。
 まずは、数々の過激なコメントの正当性について考察していきます。以下、目に付いたものを順に取り上げます。

「南朝鮮人と交流する必要はない」
 これは、ある軍事アナリストが、この日韓関係が悪化している状況下でも双方の軍事関係者の交流を続けていることを紹介し、それを評価したところ、その方に寄せられたコメントです。南朝鮮人とは韓国人のことを指していると思いますが、他にもこんな状況で交流に応じればナメられるとか、自衛隊もバカじゃないから断るはずだ、といったコメントも寄せられていました。DSCF0281.JPG
 まぁ、バカなのはこういったコメントの方で、軍人(自衛官も)というものは、一般に考えられているよりはるかに慎重派が多く、そう簡単に対立姿勢にはなりません。武器を持ったら使いたくなるのはだいたい素人の方で、軍人は武器の威力やそのもたらす結果を十分承知していますから、武力の行使は躊躇するものなのです。
 慎重にしていてもなお、偶発事故による武力衝突というものは起きることがありますから、そのようなくだらぬ事態にならないよう、軍事レベルでの交流を深めて意思疎通をはかることが大切なのです。

「自衛隊が出動して竹島を奪還しろ」
 これはあり得る選択肢のひとつですが、まさに最後の手段とも言えます。つまり、その前にたくさんの選択肢があるということです。
 さて、全ての選択肢にはメリット・デメリットがあります。
 竹島について考えてみますと、我が国の主権を全く諦めてしまってこちらも今後は独島と呼ぶことにするという残念なケースから、武力攻撃を行って韓国を完膚無きまでに叩きのめすという過激なケースまでの、両極端なケースの中間に様々なレベルの主張や譲歩の組み合わせパターンが考えられます。
 武力で奪還するというこの主張のメリットは、もちろん竹島についての主権回復です(あくまで勝った場合の話です)。ただし、デメリットは自衛隊や関連するヒト・モノの損害、それから打ち負かされた韓国の国民感情です。負けた側がいろいろなものを失うのは当然かもしれませんが、残された負の感情は長期的に見て次の戦争を呼び寄せることになります。例として、第一次世界大戦に敗れたドイツが、莫大な賠償金を課せられハイパーインフレに陥り、経済が崩壊したことが挙げられます。結果として多数の餓死者まで出したドイツでは報復感情が強くなり、そこに祖国の復活を約束したアドルフ・ヒトラーという人物が台頭する素地が出来てしまいました。その後は歴史の通りです。
 ですから、どういった解決策をとるにしろ、国家間の争いの決着は五分と五分が好ましいのです。竹島を奪還する場合は、韓国の報復感情を抑えるための手土産も何か考えておかねばなりません。

「韓国の口車に乗る気か」
 前出の軍事関係者の交流も含めて、冷静に対応しましょうという韓国側からのメッセージに対してよく見かける反応です。「そんな弱腰が戦争を引き起こす」というコメントも似たようなところで目にします。ここで注意したいのは、我が国もそうですが韓国も「韓国」という一個の生物ではない、という当たり前のことです。なんの話かと申しますと、例えば韓国で反日デモが起きたりすると、韓国からの主張は皆反日だと捉えられ、そうではないメッセージが届くと、信じられない、ワナだとかいう話になったりします。しかし、反日デモを行っている人とはデモに参加している人であり、全ての韓国人ではないのです。竹島に李大統領が上陸したのは事実ですが、それをもって全ての韓国人が上陸したわけではないし、全韓国人の支持を得たわけでもない。国家とは当たり前ですが国民の集合体であり、しかし構成している全ての国民が一個の意志に統一されているわけでもない。だから、相手国から一見して相反する主張やメッセージが届くことは当たり前のことなのです。
 したがって、こちらに届いたメッセージはそれが公式か非公式か、政府か民間か、個人か団体か、などといった点に留意して区別して扱うべきなのです。
 だいたい、我が国を見ても同じではないですか。国会の審議などはしょっちゅう空回りしたり揉めたり欠席したりしてますが、同じ問題について同じ日本人が論じているのに意見が割れ、それぞれの政党や役所、団体が時には正反対の主張をしています。これをそのまま国の外から見たら、どれが日本の意見なのか区別が付かなくなるでしょう。

 ここまで、いくつかの過激な主張について考察してきましたが、最後にこのような発言や主張が出てくる原因について考えてみたいと思います。
 ネット上で、この手の過激で時には相手を口汚く罵る愚劣とも感じられる発言がたくさん出てくる背景のひとつには、問題を深く読まない、自分の理解力が及ばない問題に対しては問題の方を矮小化する、という傾向があるのではないでしょうか。そして、問題について簡単に断じてしまう発言も目立ちます。自らの知る範囲だけに話を小さくし、それが全てだと強弁する。おまけに罵詈雑言を浴びせたりもする。これは子供の議論のやり方です。見かけは大人でも実は子供が大きくなっただけ、という人もたくさんいるということなのでしょう。
 昔は、過激だったり雑だったりいいかげんな意見も、身近な人に言うくらいしか主張する方法はありませんでした。しかしネットが普及した現代では、飲み屋での酔った戯れ言でも文字になって拡散していきます。
 言論の自由とよく言いますが、昔から自由には責任がセットになっています。自らの主張に責任は伴っているのか、ということを以前にも増して考えなければならない時代になっているということなのです。
posted by しらいし at 11:08| Comment(0) | TrackBack(0) | いろいろ

2012年01月11日

成人の日に思うこと

 成人の日の9日、全国各地で成人式が行われました。今年の新成人は、約122万人で5年連続で過去最少を更新したそうです。
 この成人の日、毎年のように新成人の誓いやら暴走やらが報道されますが、私も現職議員の頃は来賓として出席し、毎年の新成人達の様子を見ていろいろと考えさせられることがありました。

 まず、新成人達の行儀の悪さや落ち着きのなさ。服装の乱れひとつとっても、ネクタイは緩み、スーツにスニーカーブーツといった装い。約1時間前後の式典ですらジッとしてられず、体は左右に揺れ、いたるところでヒソヒソ話と携帯の操作。さざ波音楽会ならぬさざ波成人式といった状況でした。
 しかし、それを批判する資格は大人の側にもないな、とも感じていました。なぜなら、来賓席の方がザワザワフラフラと騒々しかったからです。それこそ、どうしていい年して1時間程度の式典でジッと黙ってられないのだろうかと呆れたものです。なにも軍人のように静止して目線も動かすなと言っているわけではありません。姿勢を正して押し黙っているだけでよいのに、新成人達に対して見本になれず、そのくせ批判だけはさせてもらおうとは虫が良すぎます。年長者の威厳とは何か、ということをよく考えてもらいたいといつも思っていました。

 つぎに、これは成人式の問題ではありませんが、新成人達に降りかかる問題である年金についての世代間格差問題です。
 この問題そのものは、非常に複雑かつスケールの大きな問題でもあるので、いずれ詳細に論じたいと思いますが、新成人達へのエールとして1点だけ述べます。
 年金の負担額と受給額のバランスが世代間によって大きく異なり、若い世代ほど損をする、というのが現状であり、この点だけを取り上げればゆゆしき問題ですが、世代間格差とは何も年金だけではありません。
 教育にかかるコストもまた大変な世代間格差があり、例えば今年の新成人1人に投じられた教育のためのコストは、おそらく現在の年金受給者達のそれを大幅に上回っているはずです。詳しく試算していないので大雑把な話になりますが、ご老人方が子供の頃にかかった1クラス分の教育コストを、現在では1人に投入しているような状況ではないでしょうか。それだけのコストを投入されて教育を受けたからには、それに見合うだけの能力を発揮できなければ、費用対効果は低いということになります。
 新成人の方々の前途には既に幾多の困難な社会問題が横たわっています。しかし、自分たちは史上最高の高価な教育を受けた世代であるとして、自らの幸福追求のためにその能力を発揮してもらいたいと切に願います。
posted by しらいし at 02:15| Comment(0) | いろいろ

2011年08月26日

有珠善光寺

昨日、ビデオ制作の仕事で伊達市の有珠善光寺を撮影してきた。
率直に言って、その風格や静かな佇まいに圧倒されてしまった。
こういうすばらしい文化遺産に触れるたびに、先人たちの偉大さに感銘を覚えたり、翻って自らの無知や矮小さをことさらに感じたりと、何ともいえない混沌とした心持ちにさせられる。
お寺の方々には大変よくしていただき、とにかく楽しい撮影だった。
DSCF0709.JPGDSCF0713.JPG
posted by しらいし at 07:51| Comment(1) | いろいろ

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