2018年09月23日

「縄文人はなぜ死者を穴に埋めたのか」を読んで

 2年ほど前に大島直行先生の前著縄文人の世界観について記事を書きましたが、そう言えば今回の著作縄文人はなぜ死者を穴に埋めたのかについて考えをまとめていませんでした。そうこうするうちにNHKの番組で取り上げられたりして、おまけに記念講演までやることになったので、その講演を拝聴する前に予習として感想をまとめたいと思います。今回も私見てんこ盛りなので書いていることを鵜呑みにせずに、ちゃんと本を買って読んで下さいね。

講義が始まったぞ!
 まず本を手に取ってみて読み進めてみたところ、前著「縄文人の世界観」から大きく異なる印象を受けました。
 ですます調の丁寧で平易な文体は相変わらずですが、その内容は芸術、宗教、心理学、民俗学など多岐にわたり、それらの説明のため引用が非常に多いのが特徴です。
 読んでいて、常に頭の中を整理しつつ読み込まないと自分自身の位置を見失うような錯覚を覚えます。しかしながら、学術的なテクストとして読めばこれは当たり前のことです。
 ヨーロッパの知識人達のテクストなどでは、抽象的なキーワードとア・プリオリという決まり文句だけで話が進むことも多々あるので、引用が豊富ということは親切であるとも言えます。
 例えるなら、今までの著作は縄文についての大島仮説についてわかりやすく解説していましたが、今回はもっと濃密な講義を行っている。そんな印象です。

脳と心が生み出した迷宮
 先日、NHKの歴史秘話ヒストリアに大島先生が出演され、やはり再生や月の水、ヘビのシンボライズなどについて述べられました。本書の読了後だったこともあり、興味深く拝見しましたが、その後にこの記事を書こうと思い読み返してみました。
 本書の内容は全部で7章に分かれており、1章から3章にかけて心理学や民俗学の成果を用いながら、我が国の考古学が抱える問題点を明らかにしつつ、縄文の読み解きのための方法論を提示しています。
 4章から6章まで、土器、ムラ、家、ストーンサークルについて子宮的性格という観点からのさらなる分析を展開しています。内容としては、今までの大島先生の主張されたことや研究のための方法について、その根拠を示しつつより精緻に述べられています。そして、ここでも考古学の現状を批判しています。
 ここまで読み進めたところで、谷川俊太郎の「脳と心」という詩をふと思い出しましたので、私もマネして引用してみたいと思います。

「脳と心」

この卵型の骨の器にしまってあるものは何?
傷つきやすく狂いやすいひとつの機械?
私たちはおそるおそる分解する
私たちは不器用に修理する
どこにも保証書はない

その美しいほほえみの奥にあるものは何?
見えるものと見えないものが絡み合う魂の迷路?
私たちはおずおずと踏み込む
私たちは新しい道標を立てようとする
誰も地図はもっていない

しかもなお私たちが冒険をやめないのは何故?
際限のない自問自答に我を忘れるのは?
謎をかけるのは私たち自身の脳
謎に答えようとするのも私たち自身の脳
どこまでも問い続け・・・いつまでも答えはない

 謎を解き明かしたいという研究者達の欲求。しかし長い年月を費やして自らが組み上げた構造体から抜け出せなくなっている考古学者達。そこに異論を述べると批判し無視する。でもそれは自らを否定することになるかもしれないという漠然とした恐怖であり、極めて非論理的かつ人間的な反応とも言えます。
 そんな人間ドラマも行間から垣間見える論考であり、縄文の謎に答えようとしつつ、近代考古学史としても読めて大変面白い部分です。

よみがえりやまぬもの
 さて、最期の第7章は本書のクライマックスとも呼べる章で、縄文人はなぜ死者を穴に埋めたのか、について論じています。
 この章に限らず、本書ではすべての章の冒頭で引用文がおかれています。第1章から第6章までの引用文は、それぞれの章の内容に符合する他の研究者などのテクストからのものですが、この第7章だけはそれまでと異なり、ポール・ヴァレリーの詩を引用しています。
 ポール・ヴァレリーは19世紀後半から20世紀前半にかけて著作家や詩人、小説家として活動しフランスの知性と称された人物です。
 私自身の話になりますがまだ海上自衛官だった20歳の冬に、このポール・ヴァレリーが1931年に発したある警句を目にして大変衝撃を受けました。そしてその衝撃が、ついには政治の道を志す一因となりました。まさに私の人生の一部を決定したと言っても過言ではない人物です。そんなポール・ヴァレリーの引用から始まる章ですから、読むのも力が入りました。
 話が脱線しましたが、この章では縄文人の死生観について論じています。ここで「再生」の概念が重要になってきます。
 私たち現代人の死生観において重要な(おそらく最大の)内在的論理は「死の回避」です。
 死は自己の消滅を意味し、これを回避することに大きな努力を傾けてきました。不老不死などは目指すべきゴールといったところでしょう。ところがいつまでたっても、うまく死を回避できた者が現れない、どうも死は不可避なようだ、と皆が薄々感づき始めたところで、死後の救済をスローガンにぶち上げた教えを唱える人物が現れた。世間の人々はその教えにすがり死への真正面から捉えなくてもよくなり、その恐怖を和らげることができる、という何ともいえない社会のシステムができあがり、現在ではそれを宗教と呼ぶようになりました。
 宗教システムは比較的うまく機能しているようですが、死の回避そのものについてなんの具体的解決策を示してはいません。ですから学問や科学の名の下に死の回避の努力は続けられ、既得権益と化した宗教の一部との衝突すら起きています。
 しかし、死と再生がリンクしている世界なら死をことさらに恐怖する必要はありません。死は消滅を意味しないからです。
 我々現代人にとっては、「生の終焉」としての「死」があるため、「生」「死」は対立する概念になりますが、縄文人にとって「死」が消滅ではなく「再生」の始まりを意味するのであれば、「死」「生」と対立するものではなくなり、つまり「生と死」ではなく「生」のプロセスのひとつとして「死」があることになるのではないでしょうか。
 こうなると縄文人の「死生観」という言葉すらあやしいものになってきますが、この方向に議論するとだんだんと意味論的になってくるので、死生観という言葉でここは良いことにします。
 再生について論じられたところで、そのためのカギとなるのが「子宮」です。子宮から誕生した生ける人間は、子宮に帰ることで再生のプロセスに入るという考え方です。そして実にたくさんの土偶や土器に、子宮のシンボリズムがあり、民俗学や神話学の成果もこれらを裏付けていると大島先生は論じています。
 さらに他の章でも多少触れられていましたが、この第7章からエピローグにかけて縄文人の死生観と古い神道との共通点についても論じられています。つまり、子宮から出てくるためには産道を通り抜けるわけですが、神社もその神域に入るために鳥居をくぐります。この「通り抜ける」とか「くぐり抜ける」という様式に共通点を見出しているわけです。
 ところで、私はあえて「神域」つまり神の領域という言葉を使いました。縄文に神がいるのかという話になりそうですが、ここでは前出の死生観の意味論と同じく、宗教上の神ではなくこの世ではない世界くらいに解釈して下さい。
 子宮から産道をくぐり抜けてこの世界に生者として現れ、いずれは死者となって再生のために子宮にもどると考える縄文人にとって、自己と世界、その「内」「外」をどう捉えていたのでしょうか。
 私たち現代人は、自らの皮膚の内側を「内」、皮膚の外側を「外」と認識しています。皮膚が肉体と外部の世界を分ける境界であり、自己は皮膚の内側にあると考えます。皮膚を含めたその内側は肉体そのものですから、その肉体が滅ぶことはただちに自己の消滅につながります。死を恐れるのは当然です。
 しかし、「内」が肉体ではなく再生のための領域であるならばどうでしょうか。その領域が子宮であり、またはそれに見立てた神域(あるいは再生領域)であればどうでしょうか。そうなると自己とは「内」にあるのでしょうか、それとも再生領域の「外」にあるのでしょうか。
 生まれてくる者も死に行く者も、すべての人間は再生領域から出てきて再生領域に帰るならば、たくさんの人々が再生を待っている領域が「内」で、そこから生まれ出てきてしばらくの間、ひとりでひとつの肉体を使って生きてる「私」というものは「外」にいると感じるのではないでしょうか。
 バカな妄想と一笑に付されるかもしれませんが、本書の第1章で述べられている「融即律」についてあわせて考えてみると少しは面白いかなと思ったりします。

 最後にもうひとつ、谷川俊太郎の詩を引用して終わります。

「からだ」

からだ―うちなる暗がり
それが私
ただひとりの

そよぐ繊毛の林
うごめく胃壁の井戸
ほとばしる血液の運河

からだ―闇に浮かぶ未知の惑星
それがあなた
私にほほえむ

いのちはひそんでいる
たったひとつの分子にも

だがみつめてもみつめても
秘密は見えない

見いだすのはいつも私たち自身の
驚きと畏れの……よろこび

そんなにも小さなかたちの
そんなにもかすかな動き

その爆発の巨大なとどろきを
誰ひとり聞きとることができない

いのちの静けさは深い
死の沈黙よりも

とおくけだものにつらなるもの
さらにとおく海と稲妻に
星くずにつらなるもの

くりかえす死のはての今日に
よみがえりやまぬもの

からだ
タグ:読書 縄文
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2016年04月27日

「縄文人の世界観」の世界観

 日頃より敬愛している異色の考古学者である大島直行先生が、先日2冊目の本となる「縄文人の世界観」を上梓されました。
 本の内容は、タイトル通り縄文人の世界観というテーマについてシンボリズム(象徴体系)レトリック(修辞法)という視点から読み解いていくという、大変意欲的なものです。私もさっそく取り寄せて読んでみましたが、いろいろと考えさせられるものがありました。私見も大幅に交えて、以下にいろいろと述べたいと思います。

一見して読みやすいが
 まず、文章そのものは平易に書かれており、流れるように読み進めることができます。が、それで理解しやすいと思うのは早計です。執筆するにあたってのバックボーンとなる識見は膨大であることが行間から読み取れ、本書について十分に理解するためには他の本やテキストを合わせて読まなくてはならないでしょう。しかし、ある本を読むために他の本を読むなんてことは基本ですので、こんな程度で怯んではいけません。最低限、前著である「月と蛇と縄文人」と、大島先生を含めた6名の講師による講座記録集である「縄文人はどこからきたか?」の2冊は先に読んでおくことをお勧めします。

リアルな縄文人
 本書で著されている大きな視点のひとつは、現代社会が重んじる合理性と縄文人にとってのそれは違うというものです。これまでの考古学者達は発掘された遺物や遺跡を合理性(特に経済合理性)の視点で捉えようしていた点に、本書では警鐘を鳴らしています。
 たとえば、縄文土器や土偶はなぜ奇妙奇天烈な形状なのか、竪穴住居は本当に住居だったのか、貝塚は貝殻というゴミの処分場だったのか、といった具合に次々と疑問を投げかけます。つまり、縄文土器は生活のための什器ではなく祭祀具だったのではないか、竪穴住居が住居であったという根拠は何か、貝殻が積み上がっているからゴミ処分場という解釈は現代社会的であっておかしいのではないかと考えるわけです。
 そこから、なぜ縄文人はそれらのモノや施設を作ったのか、縄文人は何を求め続け、どのような思想を持っていたのか、と考えを進めそれを解き明かすためにシンボリズムとレトリックという視点をもって縄文土器や土偶、遺跡などを読み解きそれを生み出した心性を捉えようとしています。
 縄文時代とその文化・社会について、文献や記録などは残っていません。ですから縄文人の心性を論じるなど、空理空論であると断じる方々も多くおられると思います。しかし、縄文人は現代社会に生きる人々でも、つい最近まで存命だった人々でもなく、まさに弥生時代に先立ち約1万年も続いた縄文時代に生きた人々であり、その心性を科学的に読み解こうとする挑戦は、その時代・その世界に生きるリアルな人間として縄文人を捉えようとしていることに他ならないと思います。

合理性という幻想
 私たちが生きる現代社会は、科学的・論理的な合理性というものを重視して様々な発明や工夫を重ね「進歩」していくと考えられています。そのためか、縄文に限らず過去の遺物や遺跡についても経済的合理性から読み解こうとする傾向があります。そこには、常にヒトや社会は進歩発展するという大前提となる考え方が働きます。総論的にはそうかもしれませんが、進歩というものの意味や方向はその時代や世界の持つ思想により異なるはずです。
 本書では、縄文人の目指した方向は「再生」であると述べています。それは私たち現代人の持つ方向性とは異なるものです。ここは大変ダイナミックな展開になるので、ぜひ本を手にとって直接読んでいただきたいところです。
 ところで少々脱線しますが、私には科学的進歩を大いに誇る現代人とて、それほど合理的であるようには見えません。
 いささかどぎつい例になりますが、国会や地方議会などは国民・住民の代表として選ばれた議員によって構成され、さまざまなことをそこで議論し議決しますが、その内容について時折、くだらないとか馬鹿げていると感じることもあるのではないでしょうか。しかし、議員達は歳末福引きで議席が当たったとか、誰かから分けてもらったとか、早い者勝ちで手を挙げた順番で当選したわけではありません。有権者の方々が選挙で投票して選んだ面々なのです。適任と思われる候補者を大勢で選出したのですから、合理的・論理的で適切な仕事をテキパキやりそうですが、残念なことに現実はそうじゃない方もいらっしゃいます。そして、提案される議案についても形式的でさほど中身がないものやメンツや都合で出てきたようなものも時々あり、それらの組み合わせによっては実に非合理的な展開が待ってます。
 また議会だけでなく社会全体も同様で、どう考えてもまがい物としか思えないような代物やサービスに多額のお金を支払ってしまったり、少子化を懸念する人々が保育所の建設に反対してみたり、景気対策を政府に訴えながら自身の消費を最小化しようとする(合成の誤謬と言います)など、非合理的な行動など枚挙にいとまがありません。
 つまり、元々人間なんて「わかっちゃいるけどやめられない」非合理的な存在であり、だからこそ合理的でありたいという指向も持ち合わせているということなのです。「三歩進んで二歩下がる」と歌った人もいましたが、その二歩下がることをことさら否定せずに、トータルで一歩進んだんだから良かったじゃないか、と日々納得すればよいのです。

縄文人は定住していたのか
 昨今、縄文文化は農耕せず狩猟採集だったのにもかかわらず、定住し集落を形成し、1万年もの長きにわたって維持するという人類史上、他に例を見ない文化である、という見方が出てきています。私も最近までその見方に同意していました。が、本書では縄文のムラは、いわゆる都市に発展するという意味での集落ではなく、もっと違った集合原理によっていたのではないか、という疑問を投げかけています。
 現代人である私たちは、社会というものの構造は下記のように個人を最小単位として階層的に構成されていると考えます。

個人<家族<集落<市町村<都道府県<国<世界

 しかし、大島先生はそもそも個人という概念はあったのか、という考えをお持ちのようです。この考えは一見、荒唐無稽に感じられるかもしれませんが、現代につながる私たちの社会においても、個人という概念は時代とともに大きく変化しており、私たちが持つ個人とか自己という概念は案外新しいものなのです。
 さて、縄文人は定住していたのかという問題ですが、ある遺跡から出土した土器類のうち、その土地で作られたと思われるものは全体の2割程度だったという話がありました。残りは他の土地から持ち込まれたということになりますが、これをもって現代人である考古学者達は「縄文時代にすでに交易があった!」と解釈します(私も小躍りしました)。ヒスイなども大変人気があった様子で、現在の新潟県から産出したものが北海道でも出土しています。
 ところが、大島先生はこれを交易と捉えず、単に持って歩いていたのではないかと考えている様子です。つまり、縄文人は定住していたのではなく小集団が移動しながら生活していたのではないかということです。この考え方は、おそらく今の考古学会から大きな反発を受けるものと思われます。せっかく「農耕じゃないのに定住している!」というスゴイ話になったのにそれをパーにしちゃうじゃないか、というわけです。
 しかし私は、「農耕じゃないのに定住している!しかも1万年!」なんてちっちゃい話で終わらないスゴイ仮説になるんじゃないかと考えています。

自己というモノが存在するという幻想
 自己と世界の境界が曖昧な精神の持ち主が、死を否定し再生を願う思想を持つとき、その世界観は現代人とは大きく異なるものになるでしょう。そもそも私たちにとっての死と縄文人にとっての死は、大きく異なるものかもしれません。
 私たちにとって死とは自己と肉体の終焉であり、自己というモノが消滅するという恐怖を抱いています。その恐怖から逃れるために、自己の代替として魂とか霊魂とかいう概念を考え出し、あの世に行くとか天国に行くとかいう「次の行き先」を用意して死は肉体のみであるとして肯定してきました。いわゆる宗教という救済システムです。
 縄文人が、このような自己という概念を持っていなかったとしたら、死を恐れる精神はもっと本能的な、生物として生き抜こうとする感覚だったかもしれません。
 いささか話は脱線しますが、昨年の11月に10年間一緒に暮らしてきた愛犬が亡くなりました。最後の9ヶ月ほどはガンに冒されひどい有様でしたが、しかし彼は最期まで生きることを諦めず、病の苦痛に耐えていました。
 現代においても動物は死ぬ瞬間まで生き続けようとしますが、人間だけは生きてるうちから死にたがります。大島先生は講演会において、縄文人には自殺・自死はなかったと述べていましたが、現代人と縄文人とでは生と死の意味が異なっているということなのでしょう。もしかしたら自己という概念は、システマティックな社会という構造を持ってしまったが故に生み出さざるを得なくなった、一種の幻想なのかもしれません。
 幻想にとらわれていない生と死であるならば、そして自己という幻想の殻がないのであれば、自分と周囲の人々との間は、境目のない連続した関係になることでしょう。
 「私」は自身の肉体だけに宿り閉じこもるのではなく、少しづつ薄まりながら周囲に、世界に広がって他者と混じり合っている。肉体はその「私」の一番濃い中心部に過ぎないのであれば、死とはその一番濃い部分だけが薄まり平らになることであり、溶け合い混じり合った世界のどこかに、いずれまた集まり濃い部分として「再生」される。その再生を確実にするために、効き目のありそうなことをいろいろと世代を超えて試していく。
 そんな精神を持った人々の小集団が移動生活をする世界にあって、大規模な祭祀施設を作るとすれば目的は何でしょうか。それは、再生を願う精神の緩やかな集合体の循環によって形作られた施設なのではないでしょうか。
 地球の海には海洋大循環とよばれる、表層と深海の海流がベルトコンベアのようにつながる大きな流れがあります。それは赤道付近で暖められた海水が海の表層を極地に向かって流れ、そして冷えて沈み込み深海を赤道付近に向かってゆっくりと流れていく。そしてまた暖められて表層に湧き上がってくるという巨大な循環で、その行程は数千年かかっていると考えられます。
 縄文人達の移動もシステムとして作られたのではなく、日本列島の中で自然と出来上がった大循環であったのなら、海洋大循環の湧き上がったり沈み込んだりする海域のように、循環のための継ぎ目や踊り場のような場所として形成されたのだとしたら、私たちが考えるような社会システムがなければ労働力を動員して何か大きなものを作り出すことはできない、などという考え方を葬り去ることになるのかもしれません。
 そして、進歩という変化を求め続ける現代社会のあり方は、常によろめき続ける不安定さを招くことであり、なぜ縄文文化が1万年も続いたのかという問いを続けることは、いずれ文明論の大転換につながるのかもしれません。
タグ:読書 縄文
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2015年02月12日

「建国記念の日」をご存じですか

 昨日2月11日は、建国記念の日でした。戦前は紀元節と呼ばれ祝われていた祝日ですが、戦後いったん廃止されましたが1966年(昭和41年)建国記念の日となる日を定める政令(昭和41年政令第376号)の公布により再び祝日として復活しました。

2月11日に建国したわけじゃない
 他の国々にも建国の記念日はありますが、我が国の建国記念の特徴は科学的・歴史的な信憑性が疑わしいことにあります。それもそのはず、2月11日という日は初代天皇の神武天皇が即位した日という事になっていますが、その根拠は日本書紀の「辛酉年春正月庚辰朔 天皇即帝位於橿原宮是歳爲天皇元年」という記述です。
 我が国には西暦のような古代から一貫した2000年を超える暦はなく、数十年単位の年号が断続的にあるだけで最古のものが大化の改新(645年)の時に用いられた大化です。その時の天皇は第36代の孝徳天皇ですから、それ以前の天皇については信頼性の薄い私年号や古代中国の年号や干支などと照らし合わせてさかのぼっていくことになります。
 この手順で調べた結果、前述の日本書紀の記述は紀元前660年の旧暦1月1日であるとされました。これを現在の暦になおすと1月29日になりましたが、いろいろ不都合があり再度定めたのが2月11日という具合で、明治6年の話です。
 政府の不都合により歴史上の重要な日が変わってしまうのですから、そこに科学的・歴史的信憑性を求めるのは無理というものです。
 百歩譲って日付については不問としたとして、紀元前660年というのはどうでしょう。詳しく述べると長くなりますので端折りますが、これが真実なら神武天皇は127歳まで存命だったことになりますし、その後も100歳越えの天皇が軒並み続きます。いくらなんでもこれは現実味が無いと思います。ちなみに初代から9代までは、神話上の人物で実在が疑われています。第10代の崇神天皇が初めて実在の可能性が見込める天皇であり、ほぼ確実に実在が確かめられている最も古い天皇は第15代の応神天皇と言われています(八幡さまとしても有名ですね)。

我が国は世界最古の国家?
 さて、建国記念の日の由来について述べてきましたが、最近私が懸念しているのが日本は世界最古の国家であるという主張です。ネット上では以下に示す対照年表の画像が出回っています。

世界史対照年表.jpg
(クリックすると大きな画像をご覧になれます)

 この年表の一番下が我が国ということになっていますが、他のどの国よりも長く続いていてるように見えます。
 しかし、これをもって我が国は世界最古の国家だという主張は一種のまやかしです。この対照年表を論じるためには「国家とは何か」という点をはっきりさせなければなりません。
 我が国に話を限ると、日本の国土はどこからどこまでなのかという点をまず整理しなければなりません。おおざっぱに北海道・本州・四国・九州の4島ということにしてみましょう。この領域が初めて同一政府の元に統治されたのは明治に入ってからです。それ以前の江戸時代では、北海道の大部分は中央政府の統治下になくアイヌ民族の支配下にあったといえます。さらに遡ると、坂上田村麻呂がアテルイの軍を破って東北地方を制圧できたのが8世紀頃ですから、それ以前は西日本しか統治下に収めていなかったことになります。
 対照年表上の紀元前2世紀頃から4世紀頃までは(小国分立)と記載されているとおり、その頃の日本は小さな国が割拠していた時代です。有名どころでは女王卑弥呼が治めた邪馬台国などもこの頃ですね。とても日本という統一国家ではありません。
 いわゆるヤマト政権が成立したのは4世紀頃と考えられています。九州から近畿あたりまでを支配下に置いたその政権の王が現在に続く天皇家の始まりと考えられますが、そうなると紀元前660年という話さえも大変誇張されたものということになりますね。

天皇家は世界最古の現存する王家
 こうした、歴史上の断片的な要素を都合良く解釈して2000年以上も続く国家だという話は、単なる自己満足に過ぎません。誇るならもっと揺るぎない事実をもって誇るべきです。
 その揺るぎない事実とは、我が国の皇室が1600年近く続く現存する世界最古の王家・王室であるという事実です。
 実在がほぼ確実な最古の天皇である応神天皇の即位がいつだったのかは、はっきりしませんがおそらく西暦270年頃から390年頃のどこかと考えられます。そこから数えれば1600年を超えることになりますが、第26代継体天皇の出自がはっきりしないため、そこで血統が途切れている可能性があります。この点を厳しく評価しても継体天皇の即位は507年頃と考えられるため、そこから現在に至るまで1500年の長きにわたるわけです。
 この世界最古の王室という点は、世界の王室や貴族の世界ではとても重要な要素で、2012年に行われた英国エリザベス女王の即位60周年での今上天皇への対応をみても明らかです。外国人からみて、世界最古の王室を戴くNIPPONという島国は、神話の世界から続いているような印象があるかもしれません。

 我が国の建国がいつだったのか、それは謎に包まれており建国記念の日の根拠もあやしいものであることは前述の通りですが、それは決してデタラメな話だということではなく、神話と渾然一体になるほど自然に私たちの祖先と国土から生まれ育ってきた国だということなのであって、妙なこじつけで他の国や民族と比べて悦に入る必要はないのです。
 そんなつまらない国粋主義は、視野を狭め他の民族や文化に対する敬意を失わせる危険をはらんでいます。殊更に愛国を連呼し旭日旗を掲げて練り歩く面々には特に指摘しておきたいと思います(特に十六条旭日旗は旧海軍の軍艦旗であって、現在は自衛艦旗なのでつまなぬことに使わないでいただきたい!)
タグ:歴史 天皇 建国
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2013年08月15日

8月15日という日に寄せて(1) 〜終戦の日を考える〜

 今年もまた8月15日、いわゆる「終戦の日」と呼ばれる日が巡ってきました。この日に戦没者の慰霊をすること自体は良いことだと思いますが、戦争終結の日としている現状には違和感を感じています。今回はこの点について述べたいと思います。

 8月15日が終戦の日などと呼ばれるようになったのは、昭和20年8月15日の正午に、「大東亜戦争終結ノ詔書」を昭和天皇が朗読・録音したものをラジオで放送したこと(玉音放送)に由来します。しかし、この放送そのものに法的効力はありませんでした。
 戦争の終結の過程を簡単に追うと以下の通りになります。

日本政府が連合国に「ポツダム宣言」の受諾を伝えた日は昭和20年8月14日
連合軍への戦闘行為の停止を命令したのは2日後の8月16日
降伏文書に調印し正式に休戦状態に入ったのは翌月の9月2日
国際法上の正式な戦争状態の解消は昭和27年4月28日の 日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)の発効による

 つまり8月15日という日は、玉音放送という日本国内での衝撃的な事件があった日ではありますが、世界的もしくは戦争当事国だけで見ても単なる日本国内の出来事に過ぎません。事実、第2次世界大戦で日本と戦った国々のほとんどが9月2日を戦勝記念日としています(韓国と北朝鮮は8月15日を記念日にしていますが、両国は日本との交戦国ではありません)
 そして、詔には戦争終結とありますが実態は完全な敗北です。敗戦を記念するという感覚はどうも馴染めません。

 毎年、この日にいつも危惧を感じるのは、8月15日に戦争が終わったとする幻想と、敗戦を終戦と読み替える欺瞞的感覚です。先に述べた通り、8月15日は国際法上何の効力もない日なのですが、我が国ではこの日を境に世界大戦が終わったとする認識があまりに強いと感じます。だから8月18日から開始された千島列島に対するソ連軍の攻撃を卑怯な不意打ちと批判するわけですが、ロシアにしてみればまだ戦争中だったという考えでしょうからどれほど批判を浴びせても何の痛痒も感じません。
 そして、いかに終戦と読み替えても敗戦は敗戦です。戦争に敗れるということを終戦と呼ぶことによって、なにかソフトでセンチメンタルな印象を帯びますが、あの戦争で我が国は滅亡の縁に追い込まれたのです。そうならずに戦争を終えることが出来たのは、主たる交戦国だったアメリカの戦後の対ソ連戦略という都合によるところが大きく、我が国がアメリカの戦意を大きく挫くほどの致命的な打撃を与えたわけではありません。平たく言えば運が良かったということです。

 古代中国の兵法の思想家である孫子は「兵とは国の大事なり、死生の地、存亡の道、察せざるべからざるなり」と述べています。これは、戦争は国家存亡の重大事なので熟慮を重ねて事にあたるようにという意味です。その戦争に敗北するということは、国家の滅亡も覚悟しなければならないということです。
 先の大戦では、我が国は敗北しましたが滅亡はしませんでした。でも次もそうだとは限らないのです。戦争は勝たなければ意味がないのです。
 こう述べると極めて好戦的な印象を持たれるかも知れませんが、ではそもそも勝利とは何でしょうか。
 孫子は「凡そ用兵の法は、国を全うするを上と為し、国を破るはこれに次ぐ」とも述べています。これは戦って勝つよりも戦わずして勝つ方が上策であるということです。これの考えをさらに広げれば、戦争における最大の勝利は戦争せずに国益を得ることとなり砲火を交えた時点で既に2番目以下の出来であるということです。
 誰だって学ばないことはうまく出来ません。戦争も同じで、戦争を学ばない国は戦争を回避することも戦って勝つこともできません。これからも平和でありたいと願うなら、戦争をしっかり学ばなければならないのです。
 戦争を学ぶとは、戦争の悲惨さとか二度と起こしてはならないとかをことさらに唱えることではありません。そんなことは繰り返し唱えなくとも当たり前のことです。
 戦争はどうして起こるのか、どうやってエスカレートするのか、起きてしまったらどうやって勝ち、どのようにして止めるのか。こういったこともしっかり学ぶ必要があるのです。

 私たちは、戦争の何たるかを学ばなければなりません。そうしなければ戦争で亡くなった300万柱もの戦没者の死を無駄にすることになると思うからです。
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2012年10月28日

食べるということ ―生と死のつながり―

 昨年のある夜、友人同士で集まり夕食会をしていた時の話です。その中の一人が海洋センサーの開発者で、調査船で三陸沖の海洋を調査していたときのエピソードを話してくれました。食事中にはいささか不適切な話題だったかもしれませんが、それは東日本大震災での津波の犠牲者を海中で発見したという話でした。
 彼のその経験は大変凄惨なもので、海に引き込まれた犠牲者達は海底に沈まずに海面下数百メートルで漂っており、それをソナーで発見したとのことでした。しかも木質のがれきや多数の遺体が、空に浮かぶ雲のように海中深くに集まって漂っていたとも話していました。遺体の浮力と水圧の均衡により海の底まで沈むことなく、漂いながら少しずつ分解されていく様は、慣れない人にとっては想像の域を超えるものかもしれません。
 こういう海での犠牲者の話になると決まって出てくるのが「そこで獲れた魚は食べられない」というもので、もちろんその時も同じような発言がありました。たしかに、死んだ人間を餌にしたかもしれない魚を食べるのはいささか抵抗感があるものです。しかし、私は次のように異を唱えました。

 例えば、ある人が普通に老衰で死んだとする。すると、その人は火葬場で焼かれて灰になりお墓に納められる。しかし、焼却の際に肉体は灰になるだけでなく水蒸気や二酸化炭素、窒素などの気体にも分解され、煙突から排出され大気中に拡散していく。水蒸気はやがて雲の一部となり、雨として地上に降ってくる。その水は大地や海で他の生き物の一部となる。二酸化炭素や窒素なども、植物や微生物の働きで炭水化物やタンパク質などの有機物となり、食物連鎖のなかでやがて誰かの食卓に並ぶこともある。津波に呑まれて、不慮の死を遂げたことはとても痛ましいことだけど、たどるルートが変わるだけで自然界の壮大な物質とエネルギーの循環の中にいることは変わらない。だから、三陸の魚であっても過度の忌避は不要だと思う、と。

 津波で死ぬのも自然死と同じだから気にするな、などというつもりは毛頭ありません。想像もできない程の突然の災害で、いやおうなく命を落とした人々はまさに無念であったでしょうし、家族や知人を失った方々の心中を思うと心が痛みます。しかし、幸運にも直接の被害を免れた人達は、あの三陸の海の恵みをいたずらに忌避せずに冷静に向き合って欲しいと思うのです。

 さて、前出のエピソードで物質とエネルギーの循環、食物連鎖そして食べるということについて触れましたので、これらについて少しお話ししたいと思います。
 食べる、という行為は外部の物質を自分の体内に取り入れて、エネルギーにしたり体の一部を新しくするために必要なことです。食べた物のうち、化学エネルギーとして取り込んだものは運動エネルギーや熱エネルギーとして外部に放出し、体の一部と取り替えたものはいずれ古くなってまた取り替えられ排泄されます。いわゆる新陳代謝と呼ばれるこの働きにより、私たちの体は常に新しくなりつづけていて、3ヶ月程度でほとんど入れ替わってしまうと言われています。物質とエネルギーの循環という巨大な流れは、私たちの体をその経路のひとつにして通り抜けていくとも言えます。
 食物連鎖とは、太陽の光と水と空気や無機物から植物が生長し、その植物を草食動物が、さらにその動物を肉食動物が食べるという生命の繋がりを表した概念です。
 ここで少し考えてみて下さい。この生命の繋がりは食べるという行為を介しての繋がりです。食べている相手はおおむね他の生き物です。つまり食べるということは、同時に他の命を奪うことになります。そして、生き続けるためには食べ続けなければなりません。だから、生きていくこととは、殺し続けることでもあるのです。
 現代社会に生きる私たちは、このことから目をそらしがちです。私たちの生活のために毎日驚くほどたくさんの命が奪われています。それなのに我が国では食べずに廃棄される食糧は年間2000万トン以上。殺し続けて食べもしない、これではただ殺戮していることと同じです。
 それに比べて、昔の人々は食べることの罪深さをずっと身近に感じていたことでしょう。だから、自然の万物に対して節度を保ち感謝を忘れずに暮らしていたのだと思います。
 食べることによって生と死は繋がっているのです

 食べるということを通して生命の繋がりについて考えてきました。では、生命とはなにか。現代科学は未だ、生命を定義できません。ただ、生命の持つ一面が先に示した物質とエネルギーの循環です。DSCF0146.JPG
 太陽の生み出す膨大なエネルギーの奔流。そのわずかな一筋が地球に注がれ、物質とエネルギーの循環を形づくる。そしてそのループの一部分を構成しているのが生命であり、さらにその連なりのひとつずつが地上の草花や木々、いたるところに存在する微生物、海に泳ぐ魚や海草、鳥や動物そして私たち人間なのです。
 生命は互いに繋がっており、生命と非生命もまた繋がっているのです

 悠久の時の中で紡がれる、物質とエネルギーの循環の中で生命としてひととき存在すること。その尊さにもっと思いをはせていただきたいと思っています。
posted by しらいし at 23:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 自然・科学・歴史

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