2016年01月04日

SEALDsの本を読んでみました

 あけましておめでとうございます。
 いつものことですが、またもやブログをほったらかしにしておりました。少し時間がとれましたので、昨年暮れのことを少々お話ししたいと思います。
 昨年の11月29日に東京・品川のグランドプリンスホテル新高輪において、自由民主党立党60周年記念式典が行われました。私は自民党員ではありませんが、いろいろな巡り合わせで出席することになりました。
 鉄道や飛行機での移動中は、溜まっている本を読むに絶好の機会なのですが、その時読んでいた本は「SEALDs 民主主義ってこれだ!(大月書店)」というものでした。自民党の記念式典に出席する道中で読むには、なかなかシュールな選択であったとは思います。
 さて、私自身は概ね保守系の政治家だろうなと自覚していますが、だからといって同じ意見を持つ者同士だけで群れていても視野が狭くなるだけで、異なる意見や思想についても理解しなければいけません。そこで戦後70年という年にその運動で脚光と避難を浴びたSEALDs(自由と民主主義のための学生緊急行動Students Emergency Action for Liberal Democracy-s)の主張をちゃんと読んでみようと思い、前述の本を手に取ってみたのです。

まずは賞賛したい
 読んだ感想ですが、まずは彼ら・彼女らの活動に賞賛したいと思います。表明している意見の内容はともかく、眼前の社会問題について当事者としての自覚をもち、あれだけの運動・活動を繰り広げるのは大変だったと思います。
 SEALDsのデモに色々と罵詈雑言を浴びせる大人達がいますが、しかし非難している方々は果たして彼らと同じように多くの準備を重ねて、炎天下に終日路上で自らの信条を表明するためにデモを行うことができますか?そのデモはちゃんと届出がなされた適法なもので、全ての国民に認められた権利でもあります。それを口汚く罵る姿に正義は感じられません。
 しかしながら、この本はなかなかに読みづらいものでもありました。考えが異なるからではありません。最高学府で学ぶ彼らの主張に、それに見合った知性を見出せないからです。以下にそれを述べたいと思います。

想像力の欠如

 本書の16ページに、安倍総理は想像力が欠如している、という主張がありました。その文章を書いている方は、安倍総理も自分と同じく戦後生まれだが、自分には戦場での凄惨な状況が想像できる、知性に裏付けられた想像力がある、しかし総理にはそれがないから安保関連法案を通そうとするのだ、というものです。
 そうかもしれませんが、この文章を書いた方もまた想像力が欠如していると思います。確かに、戦争は凄惨なものであり、よい行いではありません。戦わずに話し合いで問題を解決できれば、それが最善です。しかし、争いのある相手が常に話し合いに応じてくれるのか、という点に問題があります。
 そもそも、話し合う余地がない、と考えている相手に悠然と「話し合いましょう」と問いかけて、双方が冷静になれるという事はちょっと考えにくいのではないでしょうか。SEALDsの主張に想像力が欠如しているな、と感じる点のひとつはこういった紛争の相手国の反応を考えない、誠実に話し合えばわかってくれる、という自分たちの理想や主張を無意識に押しつけるところが見えるからです。
 相手の立場になって考える、というと相手の気持ちにより添って接する優しさのように理解する人が多いと思いますが、それは一面だけの見方です。
 相手が熱くなっていて、まともに話せる状況ではないなら、距離を置くなりして冷めるを待つのもまた、相手の立場になって考えることになります。距離を置こうとしても相手が引かない、なおも攻めたてようとする場合、こちらもまた反撃する姿勢を見せて相手をひるませることも必要でしょう。それでもなお、ひるまず攻め込もうとするのならば相手も生かしつつ自らも生き残るために、適切な反撃をしなければなりません。こうして、双方が冷静になれるチャンスを待つことも大切なのです。
 しかし、SEALDsに限ったことではありませんが、平和運動のようなことをされている方々に多く見られるのが、この「誠実な話し合いの押しつけ」です。冷静に誠実に話し合うことは大切ですが、こちらが話したいと思えば相手も合わせてくれる、という前提を無意識に持ってしまうところに、知性や想像力の欠如を感じるのです。

強行採決って何だ?
 この本の随所に踊っている単語のひとつに「強行採決」がありました。野党の理解が得られず反対が強まる中、与党議員のみで採決を強行した、というニュアンスでしょうか。
 では、強行ではない採決って何でしょうか。全議員が賛成するということでしょうか。それは全体主義になってしまうのではないでしょうか。たった一人の反対に議会全体が左右されてしまうのではないでしょうか。これが極端な例だとするなら、何人の賛成が得られれば強行採決ではないのでしょうか。
 SEALDsがデモで行ったコールに「民主主義ってなんだ」というものがありましたが、多数決は民主主義というシステムにおいてきわめて重要な要素です。多数決だけが民主主義ではありませんが、しかし軽視してはいけないものなのです。
 ついでに言うと、強行採決というものは野党にとっても都合の良い仕掛けです。つまり、いずれにしても採決で負けてしまう野党が、世間に対して抵抗する姿を十分に見せることができる、政治的パフォーマンスの側面があるのです。そのため過去には、採決の時間を野党が誤解していたために欠席してしまい、これに気を遣った与党が強行採決のやり直しをした、と思われる事態も起きています。こうした大人の悪知恵を知ることもまた大切です。

語られた言葉の真意は
 本書の14ページには、ワーテルローの戦いでナポレオンを破ったウェリントン公の言葉が引用されていました。「本当に勝ったのは、戦いをしない国だ」というものですが、これを幾多の戦場を見てきた彼にして戦争しないことの重要性を悟っていたのだと引用した著者は評しています。
 しかし、ウェリントン公がそう語るのは、単に戦争の悲惨さを否定するという単純な意味ではないだろうと私は思います。彼は政治家としても首相まで務めましたが、生涯軍務を愛し、あらゆる意味で大英帝国の軍人と呼ぶべき人物でした。
 ウェリントン公の得意とした戦い方は、用意周到な防御戦でした。孫子「善く戦う者は、先ず勝つべからざるを為して、以て敵の勝つべきを待つ」と述べておりこれは戦う際にはまず陣を固めて負けない体勢とし、その上で不利な状況で敵が飛び込んでくるのを待つというもので、まさにウェリントン公が体現した戦い方です。その孫子はまた「百戦百勝は善の善なる者に非ざるなり。戦わずして人の兵を屈するのは善の善なる者なり」とも述べています。そこにはいずれも如何に戦争に勝つのか、そしてそもそも勝利とは何かという視点があり、ウェリントン公も同様な視点を持っていたと思います。だからこそ「本当に勝ったのは」という勝ち負けの見方をしているのでしょう。
 付け加えると、ウェリントン公は晩年に陸軍総司令官に就任し死去する1852年まで務めましたが、シビリアンコントロールを嫌い軍制改革に慎重であったことも覚えておきたいところです。
 このように、歴史上の著名人の発言を取り上げるならば、その人物の足跡をも理解した上で引用しなければそのニュアンスは掴めないと思います。安易な引用は、一歩間違うとデマと同じ効果を持ってしまいます。知性ある訴えをしたいのであれば、大変でしょうが学ぶ努力を怠らず、歴史から本当の教訓をくみ取るよう研鑽を積んでもらいたいと思います。

民主主義って何だ?
 デモではこのコールの後に「これだ!」と叫んでいました。本のタイトルも「民主主義ってこれだ!」でしたが、これってどれのことでしょうか。
 このSEALDsの皆さんの感性は、若いと同時に未熟だと感じます。彼らのデモや本での主張に、民主主義というシステムや意味について深い考察や議論は見当たりません。強いて言えば「アベ政治は俺たちの感性に合わないんだ!」ということを主張しているように感じます。
 しかしながら、SEALDsの主体は大学生であると考えますが、それならば大学生としての知性をもっと見せて欲しいのです。感覚や雰囲気で叫ぶだけなら、大学まで進学しなくてもできます。今までのところ、SEALDsの主張に野党や従前の市民運動家などの主張を超える、知的で深みを感じさせるようなものは見当たりません。かわりに所々に見られるのが「バカな俺たちにもわかる」というニュアンスをもったさまざまな言葉や姿勢です。
 でもSEALDsの皆さんの大半は、やはり大学という最高学府に学ぶ大学生なのです。中学生程度の知識と感覚でいられては困ります。「民主主義って何だ?これだ!」という極めて短絡的なコールに、熱意は感じても知性を感じることはできません。
 さらにもうひとつ厳しいことを述べますと、SEALDsの皆さんは今までにないスタイリッシュなデモをしようとしていたようですが、何かの政治的な主張を短いフレーズにしてリズミカルにクールに訴えるというスタイルは全くダメとは申しませんが、あまり感心できません。というのも、過去の様々な戦争でもわかりやすいリズムやメロディーで戦争や敵国への憎悪を煽った例は枚挙に暇がないのです。わかりやすさは疲弊している人々の思考を妨げ、感情に訴えることによって理性を失わせ残虐な行いに誘うこともまた可能であり常道なのです。

礼節と教養を
 最後にSEALDsの皆さんに求めたいのは礼節です。デモやネット上で彼らが発した様々な罵詈雑言は見るに堪えないものです。自らの主張が正義であり正しいものであり、相手のそれは不正義であり誤りであるとしても、それが相手を口汚く罵ってよい理由にはなりません。知性に裏付けられた主張をするのであれば、冷静さは不可欠であり相手にもまたそれを求めて話し合いがしたいのであれば、罵詈雑言を発することは間違いです。
 そして、相手が罵詈雑言を発するから自分たちも応戦するのだというものであっても、やはり話し合いにはなりません。先に「誠実な話し合いの押しつけ」について述べました。それでもなお話し合おうとするなら待ったり耐えたりしなければなりません。知性と冷静さに併せて忍耐力も必要なのです。SEALDsの皆さんは、長く大変な準備をし長時間のデモにも耐えたのですから忍耐力は備わっているはずです。それをぜひ知性と結びつけて頂きたいと思いますしできるはずです。
 そして教養を身に付けて下さい。教養を身に付けるためには、まずはたくさん学ぶことですが、それだけでは足りません。莫大な知識を取り込めば、それらの一部が互いに矛盾していることを知るはずです。皆さんが国会議事堂前でデモをしていたとき、年季の入った方々もたくさんいたはずですが、それらの自称平和運動家の一部は世界の矛盾を認めない人たちです。今回の例では「9条守れ!」と叫んでいたようですが、9条も含む日本国憲法は我が国の国内法であって、他の国々には何ら遵守する義務はありません。だから私たち日本人が戦争を放棄しても、それは他の国々が同じくそうすることを意味しないのです。しかし、そんなことを言って戦争を肯定し続ければ、いつまでたっても世界から戦争はなくなりません。

 理念と現実の狭間で悩むこと、これは教養へのステップです。世界は矛盾装置であることを受け入れるのです。矛盾を受け入れるからこそ、進歩を求めて学び続け前進することができるのです。SEALDsの皆さんの中から、将来我が国を代表するような真の知識人が現れてくることを切に願っております。
posted by しらいし at 01:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 政治・行政

2015年07月17日

北海道新幹線開業に向けて、観光PR用大型ロボット「イカボー11号機」プロジェクト発進!

 昨年より公立はこだて未来大学とロボットフェス・インはこだて市民の会とで検討を続けていた、観光PR用巨大イカ型ロボット「イカボー11号機」の製作に向けて、プロジェクトが走り出しました。
 未来大の学生さん達によるプロジェクトの名前はそのものズバリの「いかロボットプロジェクト」です。
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 この「イカボー11号機」の元になったロボット「イカボー1号機」は、Youtubeなどですっかり有名になったイカール星人のPVに函館を破壊するロボットとして登場していましたが、元々は全高2m・重量200kgの現物が先で、その後デザインをPVに利用したいという申し入れがあって実現したものです。
 今では、イカール星人の方が有名になって「実物も作ったんですね〜」なんて事実と反対のことを言われてしまう始末ですが(笑)何がともあれ、函館のPRになるのは結構なことです。
 さて、今回は1号機を上回る全高3.8mの大型ロボットを目指しています。
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写真左が1号機。右が11号機の想像図

 私が現在、会長をつとめている「ロボットフェス・インはこだて市民の会」(←私は函館市民じゃないのに!)も、これを応援すべく資金集めに奔走していますが、頼もしい学生さん達は自力でその資金を調達しようとしています。その方法はクラウドファンディング。現在READYFOR?というクラウドファンディングのサイトにエントリーしています。
 学生さん達の熱意をぜひ形にすべく、広く皆様にご支援を募りたいと私からもお願い申し上げます!
 以下にREADRFOR?のページへのリンクを示します。
[READYFOR?]
「イカロボットを完成させ北海道新幹線とともに函館を盛り上げたい」
URL https://readyfor.jp/projects/ikabo

以下は、関連リンクです。

[いかロボットプロジェクト Facebookページ]

[ロボットフェス・インはこだて市民の会」
posted by しらいし at 20:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 観光

2015年04月20日

「雇用・防災・福祉・教育」私の政策について

 19日より、北斗市議会議員選挙がはじまりました。議員として、政治家として政策を持つことは当たり前の話ですが、私が今回特に掲げている主な政策は表題の4点です。ポスター.ai.jpg
 どれも大変難しく複雑な政策ですが、ポスターや公選ハガキでは紙面が限られるため、表題のようにキーワードだけを掲げるしかありません。街頭演説ではもう少し詳しくご説明することができますが、演説はその瞬間だけのものなので、ブログにも記しておこうと思います。

雇用について
 雇用というキーワードに集約していますが、平たく言うと産業振興企業誘致ということになります。ほとんどの候補者が口にしているフレーズですが、言う程簡単なものではありません。
 私が注目しているのは、北海道新幹線の開業と農業の振興です。開業まで1年を切った北海道新幹線は、いろいろとデメリットも指摘されていますが、しかし半世紀に一度くらいあるかないかの大きな変化には違いありません。そして、変化はそのままでは振り回されるだけですが、しっかり取り組めばチャンスに転じることができます。
 北海道新幹線の開業によって、関東・首都圏とのアクセスが改善されることはもちろんですが、東北経済圏とはより短時間でアクセスできることになります。道南と東北の歴史的な縁は、私たちが思っている以上に深いものがあります。経済活動は突き詰めれば人と人の結びつきによって成るものです。歴史的な縁は必ずなにがしかの果実を生み出すものなのです。
 農業については、世界の食糧事情から将来の予測がつきます。かつて世界には、全人口の1.5倍から2倍くらいの穀物生産力がありました。しかし、ここ数年その差は縮まっており、食糧自給率(カロリーベース)が4割程度の我が国にとって、これは全く歓迎できないことですが、農業・水産業などの1次産業が基幹産業の北斗市にとっては生産品を高値で売れるチャンスと捉えるべきです。
 しかし、そのチャンスが訪れるまで農地を保全し担い手を確保しなくてはならず、それを農家の自助努力だけでまかなうのはいささか無理があります。そのためにも効果的な農業政策を打つことはとても重要です。

防災について
 私は、8年以上の海上自衛隊勤務とその後の18年に及ぶ予備自衛官としての経験を積んでいます。衣食住が失われたり滞ったりしたらどうなるのか、その時どのようなストレスがかかるのか、どのように行動し、どうしたら困っている隣人を救助できるのか、様々な教育訓練を受けました。
 そんな私だからこそ、見えるものがあります。市町村などの地方自治体は消防を除き「平時の役所」です。普通の職員は、炎に包まれた建物の中に飛び込んだこともなければ、作業服のまま首まで水に浸かって作業をした経験もありません。何日も風呂にも入れず、冷たくて訳のわからない味の食事しか摂れず、堅い床や地面で寝て過ごしたり、2時間おきに寝たり起きたりなどという無茶苦茶な目に遭うこともありません。しかし、自衛官はそういったことも訓練で経験します。だから本番に強くて、困難な状況におかれても簡単に士気は下がりません。
 そして、大規模災害時には同じ地域の住人でもある自衛官は、同じく被災者なのに被災者として振る舞うことは許されず、また望みもしません。それが任務なのですから。
 しかし、市役所の職員などはそういった訓練や経験がないにもかかわらず、大勢の被災者を支えなくてはなりません。自らも被災者なのに、そこを抑えて人のために働くことは、大変ストレスがかかるはずです。だから平時から少しでも多くの経験を積まなくてはなりませんが、そのために私自身の知識と経験を役立てることができると思うのです。

福祉について
 ここでいう福祉とは、広義の福祉である「公共の福祉」ではなく、高齢者や子育て世帯など一般的に社会的な保護を必要としている件についてです。
 私はもともと高齢者という言葉は嫌いです。単に年齢が高いという意味しか持たないこの言葉に、尊厳を感じないからです。ですから、状況が許す限り「お年寄り」「ご老人」、場合によっては「先輩」と呼ぶようにしています。
 今日までこの国と地域社会を築いてきたのは、そのお年寄りでありご老人であり大先輩達です。70年前、焦土と化したこの国を立て直したのも先輩達であり、150年ほど前に西洋列強の植民地政策を寄せ付けず、近代化への道を歩んだのも先輩達。世界に誇る様々な文化や芸術を生み出したのも歴史上の大先輩達です。
 私たちのような、より若い世代はこの先輩達が築いた国と地域社会で生まれ育ち、これを引き継ぎ、よりよいものにしなければなりません。そして、艱難辛苦に耐えた先輩達に敬意を持って接し遇さねばなりません。
 そのためには、まず先輩達を尊敬し誇りを感じてもらわなければなりません。私はこの先輩達を高齢者と称して社会的弱者として扱うことに疑問を感じます。
 そして、社会をより良くしていくためには、次世代を育んでいかなければなりません。そのためには、子育て世帯に手厚い政策を立案実行していくことは自明の理であると考えます。

教育について
 先にも述べましたが、次世代を育んでいくことは社会をより良くしていくための絶対条件です。公共事業というと、道路や橋、上下水道などの整備や施設・建物などの建設をイメージしますが、最も価値のある公共財は社会を構成する「人」そのものです。その人をつくるための教育こそ、最高の公共事業なのです。
 長期の展望を持った教育行政は何にもまして私たちの将来を担保してくれます。歴史をひもとけば、教育をおろそかにした国に長期の繁栄と生存はありません。

 以上のような内容の街頭演説をしております。それぞれの内容はおおざっぱなものですが、もっと詳細に語ると時間がかかりすぎるので、どうしても概念論的にしかなりませんが、どこかで見かけたときにはお耳を貸していただけると光栄です。
posted by しらいし at 02:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 政治・行政

2015年04月03日

高坂重勝氏のFacebookの記事を読んで

 今朝、北斗市で高坂農園を経営されている、高坂重勝氏のFacebookの記事を読みました。実に興味深い問題提起だったのでコメントを書こうかと思ったのですが、あまりに長くなったのでブログに書くことにしました。
リンク:高坂氏の記事『日本の食料自給率について』
(Facebookのアカウントが必要です)
 高坂氏のその記事は、「かなり長文です m(_ _)m 食料自給率の件についてちょっと皆様の意見をお聞かせ願いたいです」という書き出しから始まる、食糧自給率(カロリーベース)の解説と生産者としての考え方、需給のミスマッチなどについて書かれています。Facebookのアカウントをお持ちの方は是非ご一読いただきたいと思います。

 高坂氏の記事の冒頭に『日本の食料自給率について』と題して、カロリーベース総合食料自給率についての説明がありました。詳しくは氏の記事をお読みいただくとして、私は食糧自給率について私見を述べたいと思います。

有事とは何か
 食糧自給率について議論を展開する際に、この概念は基本的に国家安全保障の分野になりますから、「有事とは何か」という前提が必要になります。
 一般に有事と言えば軍事上の紛争や衝突、戦争などを指しますが、これは狭義の有事であって、広義には「その時点の国家にとっての弱点を突かれること」です。何の原因も状況もなく軍事力を行使することはありえず、その前段階として様々な利害の衝突やミスマッチがあります。そしてその状況を解消しようとする国家によって自国の弱点を認識され利用されることにより危機が生じ、そこから脱しようとして対立がエスカレートし、時に軍事力の行使を選択するのです。

我が国の弱点とは
 我が国の弱点は、食料やエネルギーを含む様々な資源の自給率の低さです。しかし150年ほど前までは、ほぼ自給自足の経済でした。つまりそこまで国の姿を戻せば、自給率の話は心配ナシとなります。
 この場合、生活スタイルだけでなく国全体の話になりますから、道路も舗装はナシ、ネットどころか電話もナシ、自動車も鉄道も飛行機もナシ、自衛隊も警察もナシですからそもそも国防自体できません。
 もちろんこれでは馬鹿げた想定になりますから、自給率に経済の方を合わせるという話は、危機感を煽るときのたとえ話ということになります。
 食料は地下資源と違ってどこでも生産できるという屁理屈もありますが、高坂さんの話でもバナナの部分で出てきたとおり、現実に必要な量を生産できないものはたくさんあります。

ほとんどの国は輸入に頼っている
 そもそも、多様な生活スタイルを実現したければ、ほとんどの国で何らかの資源が不足していて、輸入に頼らざるを得ません。
 安定的に資源を輸入するためには、その買い物の支払いを継続できる経済力と、国際社会の安定と平和の維持が必要です。
 輸入の支払いにあてる経済力とは、結局のところそれに見合った何らかの形の輸出であり、その品目は資源でも製品でも資本でも、場合によっては人材でもかまいません。
 国際社会の平和と安定の維持については、日頃から経済力・外交力・軍事力などのパワーバランスをとる努力が必要です。
 このパワーバランスの大きな要素の一つが自給率という概念なのです。

パワーバランスの要素としての自給率
 自給率があまりに低ければ、それは他国に弱点と見なされ、そこを締め上げれば屈服すると認識されます。しかし締め上げたところで、その国と国民が我慢すればすむ程度の低さであれば、弱点とは言えません。
 また、シンガポールのようにほぼ自給は不可能な国家もありますが、その分、国際社会にとってなくてはならない価値があれば、それでも安全は確保されます。
 つまり、自給率が100%を超えなければ問題だというわけではなく、どの程度国内で確保していれば良いのかは、その国の置かれた状況によって違うわけです。また、自給率100%以上の国は資源輸出国になると考えられますが、その資源が世界の市場で供給過剰になったりすると、国内経済にも悪影響が出るので輸出国の立場が強いと単純には言えません。
 したがって、市場をコントロールできる国こそ立場が強いということになります。市場をコントロールするためには、強くて柔軟な外交力や軍事力、経済力が必要です。資本や基軸通貨を制御できる仕組みも必要です。
 自給率という数字は、危機に対する強さを表すものと言えます。それが全てではないし、しかし軽視して良いものでもありません。

食糧自給率と安全保障
 安全保障と自給率の関係を述べましたが、特に食料自給率に関して注目すべきはヨーロッパで以前から導入されている直接支払い制度などの農業保護・育成政策です。食糧自給と安全保障は強い関連のある概念ですから、採算性のみでこの問題に取り組むことはありえません。
 ところが我が国においては、そこを民間の経済活動に大きく頼るというところに問題があります。軍事力によって国防を担う自衛官は公務員で給料が支払われるのに、食料生産を担う農家等の生産者は、そこは採算ベースで自分の稼ぎでという話はいささか無理があると思います。もちろん農家を公務員に、という話ではありませんし、農家だけが国の重要な産業という話ではありませんが、我が国にとって重要な要素だと考えるならば、それ相応の待遇が必要だと思うのです。

金を積めば良いという話ではない
 世界全体の食料生産力は、近年まで世界人口を上回っていました。これは、需給のミスマッチを解消できれば飢餓を解消できるということであり、我が国においては金さえ出せば食料を輸入できるという意味になります。
 しかし徐々に供給力に人口が追いついてきており、いずれは拮抗し逆転する状況が想定されます。世界の食糧生産力が恒常的に世界人口を下回る状況とは何かと考えると、それは金を積んでも食料を売ってもらえないということです。
 この危機を回避するためには何をすれば良いのか。
 それは、国内においては生産者と消費者の関係を適切にすること。つまり、適切な価格とは何か、満足すべき量と質はどの程度か、生産者が生産の維持拡大をするために必要な状況を作るにはどうしたらよいのか、そして消費者においては「足るを知る」ことも重要です。
 国際社会においてもこれは同じ事で、供給国との関係を良好に保つこと、相手国の求める何かを提供し、我が国の求める資源を供給してもらうこと。そして、その関係を維持していくことです。
 いずれにおいても、適切で良好な取引関係を構築することが肝要なのです。

 昔、ある経済学の本を読んでいたときに「商取引とは価値の交換だけでなく良心の交換も伴う」とありました。けだし名言であると感じました。
 私たちを日々生かしている食とは何か、それを作っているのは誰か、どのような仕組みで私たちの食卓まで届くのか。
 私たちはもっとこの問題を深く理解する必要があると思います。
posted by しらいし at 13:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済

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