2016年04月27日

「縄文人の世界観」の世界観

 日頃より敬愛している異色の考古学者である大島直行先生が、先日2冊目の本となる「縄文人の世界観」を上梓されました。
 本の内容は、タイトル通り縄文人の世界観というテーマについてシンボリズム(象徴体系)レトリック(修辞法)という視点から読み解いていくという、大変意欲的なものです。私もさっそく取り寄せて読んでみましたが、いろいろと考えさせられるものがありました。私見も大幅に交えて、以下にいろいろと述べたいと思います。

一見して読みやすいが
 まず、文章そのものは平易に書かれており、流れるように読み進めることができます。が、それで理解しやすいと思うのは早計です。執筆するにあたってのバックボーンとなる識見は膨大であることが行間から読み取れ、本書について十分に理解するためには他の本やテキストを合わせて読まなくてはならないでしょう。しかし、ある本を読むために他の本を読むなんてことは基本ですので、こんな程度で怯んではいけません。最低限、前著である「月と蛇と縄文人」と、大島先生を含めた6名の講師による講座記録集である「縄文人はどこからきたか?」の2冊は先に読んでおくことをお勧めします。

リアルな縄文人
 本書で著されている大きな視点のひとつは、現代社会が重んじる合理性と縄文人にとってのそれは違うというものです。これまでの考古学者達は発掘された遺物や遺跡を合理性(特に経済合理性)の視点で捉えようしていた点に、本書では警鐘を鳴らしています。
 たとえば、縄文土器や土偶はなぜ奇妙奇天烈な形状なのか、竪穴住居は本当に住居だったのか、貝塚は貝殻というゴミの処分場だったのか、といった具合に次々と疑問を投げかけます。つまり、縄文土器は生活のための什器ではなく祭祀具だったのではないか、竪穴住居が住居であったという根拠は何か、貝殻が積み上がっているからゴミ処分場という解釈は現代社会的であっておかしいのではないかと考えるわけです。
 そこから、なぜ縄文人はそれらのモノや施設を作ったのか、縄文人は何を求め続け、どのような思想を持っていたのか、と考えを進めそれを解き明かすためにシンボリズムとレトリックという視点をもって縄文土器や土偶、遺跡などを読み解きそれを生み出した心性を捉えようとしています。
 縄文時代とその文化・社会について、文献や記録などは残っていません。ですから縄文人の心性を論じるなど、空理空論であると断じる方々も多くおられると思います。しかし、縄文人は現代社会に生きる人々でも、つい最近まで存命だった人々でもなく、まさに弥生時代に先立ち約1万年も続いた縄文時代に生きた人々であり、その心性を科学的に読み解こうとする挑戦は、その時代・その世界に生きるリアルな人間として縄文人を捉えようとしていることに他ならないと思います。

合理性という幻想
 私たちが生きる現代社会は、科学的・論理的な合理性というものを重視して様々な発明や工夫を重ね「進歩」していくと考えられています。そのためか、縄文に限らず過去の遺物や遺跡についても経済的合理性から読み解こうとする傾向があります。そこには、常にヒトや社会は進歩発展するという大前提となる考え方が働きます。総論的にはそうかもしれませんが、進歩というものの意味や方向はその時代や世界の持つ思想により異なるはずです。
 本書では、縄文人の目指した方向は「再生」であると述べています。それは私たち現代人の持つ方向性とは異なるものです。ここは大変ダイナミックな展開になるので、ぜひ本を手にとって直接読んでいただきたいところです。
 ところで少々脱線しますが、私には科学的進歩を大いに誇る現代人とて、それほど合理的であるようには見えません。
 いささかどぎつい例になりますが、国会や地方議会などは国民・住民の代表として選ばれた議員によって構成され、さまざまなことをそこで議論し議決しますが、その内容について時折、くだらないとか馬鹿げていると感じることもあるのではないでしょうか。しかし、議員達は歳末福引きで議席が当たったとか、誰かから分けてもらったとか、早い者勝ちで手を挙げた順番で当選したわけではありません。有権者の方々が選挙で投票して選んだ面々なのです。適任と思われる候補者を大勢で選出したのですから、合理的・論理的で適切な仕事をテキパキやりそうですが、残念なことに現実はそうじゃない方もいらっしゃいます。そして、提案される議案についても形式的でさほど中身がないものやメンツや都合で出てきたようなものも時々あり、それらの組み合わせによっては実に非合理的な展開が待ってます。
 また議会だけでなく社会全体も同様で、どう考えてもまがい物としか思えないような代物やサービスに多額のお金を支払ってしまったり、少子化を懸念する人々が保育所の建設に反対してみたり、景気対策を政府に訴えながら自身の消費を最小化しようとする(合成の誤謬と言います)など、非合理的な行動など枚挙にいとまがありません。
 つまり、元々人間なんて「わかっちゃいるけどやめられない」非合理的な存在であり、だからこそ合理的でありたいという指向も持ち合わせているということなのです。「三歩進んで二歩下がる」と歌った人もいましたが、その二歩下がることをことさら否定せずに、トータルで一歩進んだんだから良かったじゃないか、と日々納得すればよいのです。

縄文人は定住していたのか
 昨今、縄文文化は農耕せず狩猟採集だったのにもかかわらず、定住し集落を形成し、1万年もの長きにわたって維持するという人類史上、他に例を見ない文化である、という見方が出てきています。私も最近までその見方に同意していました。が、本書では縄文のムラは、いわゆる都市に発展するという意味での集落ではなく、もっと違った集合原理によっていたのではないか、という疑問を投げかけています。
 現代人である私たちは、社会というものの構造は下記のように個人を最小単位として階層的に構成されていると考えます。

個人<家族<集落<市町村<都道府県<国<世界

 しかし、大島先生はそもそも個人という概念はあったのか、という考えをお持ちのようです。この考えは一見、荒唐無稽に感じられるかもしれませんが、現代につながる私たちの社会においても、個人という概念は時代とともに大きく変化しており、私たちが持つ個人とか自己という概念は案外新しいものなのです。
 さて、縄文人は定住していたのかという問題ですが、ある遺跡から出土した土器類のうち、その土地で作られたと思われるものは全体の2割程度だったという話がありました。残りは他の土地から持ち込まれたということになりますが、これをもって現代人である考古学者達は「縄文時代にすでに交易があった!」と解釈します(私も小躍りしました)。ヒスイなども大変人気があった様子で、現在の新潟県から産出したものが北海道でも出土しています。
 ところが、大島先生はこれを交易と捉えず、単に持って歩いていたのではないかと考えている様子です。つまり、縄文人は定住していたのではなく小集団が移動しながら生活していたのではないかということです。この考え方は、おそらく今の考古学会から大きな反発を受けるものと思われます。せっかく「農耕じゃないのに定住している!」というスゴイ話になったのにそれをパーにしちゃうじゃないか、というわけです。
 しかし私は、「農耕じゃないのに定住している!しかも1万年!」なんてちっちゃい話で終わらないスゴイ仮説になるんじゃないかと考えています。

自己というモノが存在するという幻想
 自己と世界の境界が曖昧な精神の持ち主が、死を否定し再生を願う思想を持つとき、その世界観は現代人とは大きく異なるものになるでしょう。そもそも私たちにとっての死と縄文人にとっての死は、大きく異なるものかもしれません。
 私たちにとって死とは自己と肉体の終焉であり、自己というモノが消滅するという恐怖を抱いています。その恐怖から逃れるために、自己の代替として魂とか霊魂とかいう概念を考え出し、あの世に行くとか天国に行くとかいう「次の行き先」を用意して死は肉体のみであるとして肯定してきました。いわゆる宗教という救済システムです。
 縄文人が、このような自己という概念を持っていなかったとしたら、死を恐れる精神はもっと本能的な、生物として生き抜こうとする感覚だったかもしれません。
 いささか話は脱線しますが、昨年の11月に10年間一緒に暮らしてきた愛犬が亡くなりました。最後の9ヶ月ほどはガンに冒されひどい有様でしたが、しかし彼は最期まで生きることを諦めず、病の苦痛に耐えていました。
 現代においても動物は死ぬ瞬間まで生き続けようとしますが、人間だけは生きてるうちから死にたがります。大島先生は講演会において、縄文人には自殺・自死はなかったと述べていましたが、現代人と縄文人とでは生と死の意味が異なっているということなのでしょう。もしかしたら自己という概念は、システマティックな社会という構造を持ってしまったが故に生み出さざるを得なくなった、一種の幻想なのかもしれません。
 幻想にとらわれていない生と死であるならば、そして自己という幻想の殻がないのであれば、自分と周囲の人々との間は、境目のない連続した関係になることでしょう。
 「私」は自身の肉体だけに宿り閉じこもるのではなく、少しづつ薄まりながら周囲に、世界に広がって他者と混じり合っている。肉体はその「私」の一番濃い中心部に過ぎないのであれば、死とはその一番濃い部分だけが薄まり平らになることであり、溶け合い混じり合った世界のどこかに、いずれまた集まり濃い部分として「再生」される。その再生を確実にするために、効き目のありそうなことをいろいろと世代を超えて試していく。
 そんな精神を持った人々の小集団が移動生活をする世界にあって、大規模な祭祀施設を作るとすれば目的は何でしょうか。それは、再生を願う精神の緩やかな集合体の循環によって形作られた施設なのではないでしょうか。
 地球の海には海洋大循環とよばれる、表層と深海の海流がベルトコンベアのようにつながる大きな流れがあります。それは赤道付近で暖められた海水が海の表層を極地に向かって流れ、そして冷えて沈み込み深海を赤道付近に向かってゆっくりと流れていく。そしてまた暖められて表層に湧き上がってくるという巨大な循環で、その行程は数千年かかっていると考えられます。
 縄文人達の移動もシステムとして作られたのではなく、日本列島の中で自然と出来上がった大循環であったのなら、海洋大循環の湧き上がったり沈み込んだりする海域のように、循環のための継ぎ目や踊り場のような場所として形成されたのだとしたら、私たちが考えるような社会システムがなければ労働力を動員して何か大きなものを作り出すことはできない、などという考え方を葬り去ることになるのかもしれません。
 そして、進歩という変化を求め続ける現代社会のあり方は、常によろめき続ける不安定さを招くことであり、なぜ縄文文化が1万年も続いたのかという問いを続けることは、いずれ文明論の大転換につながるのかもしれません。
タグ:読書 縄文
posted by しらいし at 22:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 自然・科学・歴史

2016年01月04日

SEALDsの本を読んでみました

 あけましておめでとうございます。
 いつものことですが、またもやブログをほったらかしにしておりました。少し時間がとれましたので、昨年暮れのことを少々お話ししたいと思います。
 昨年の11月29日に東京・品川のグランドプリンスホテル新高輪において、自由民主党立党60周年記念式典が行われました。私は自民党員ではありませんが、いろいろな巡り合わせで出席することになりました。
 鉄道や飛行機での移動中は、溜まっている本を読むに絶好の機会なのですが、その時読んでいた本は「SEALDs 民主主義ってこれだ!(大月書店)」というものでした。自民党の記念式典に出席する道中で読むには、なかなかシュールな選択であったとは思います。
 さて、私自身は概ね保守系の政治家だろうなと自覚していますが、だからといって同じ意見を持つ者同士だけで群れていても視野が狭くなるだけで、異なる意見や思想についても理解しなければいけません。そこで戦後70年という年にその運動で脚光と避難を浴びたSEALDs(自由と民主主義のための学生緊急行動Students Emergency Action for Liberal Democracy-s)の主張をちゃんと読んでみようと思い、前述の本を手に取ってみたのです。

まずは賞賛したい
 読んだ感想ですが、まずは彼ら・彼女らの活動に賞賛したいと思います。表明している意見の内容はともかく、眼前の社会問題について当事者としての自覚をもち、あれだけの運動・活動を繰り広げるのは大変だったと思います。
 SEALDsのデモに色々と罵詈雑言を浴びせる大人達がいますが、しかし非難している方々は果たして彼らと同じように多くの準備を重ねて、炎天下に終日路上で自らの信条を表明するためにデモを行うことができますか?そのデモはちゃんと届出がなされた適法なもので、全ての国民に認められた権利でもあります。それを口汚く罵る姿に正義は感じられません。
 しかしながら、この本はなかなかに読みづらいものでもありました。考えが異なるからではありません。最高学府で学ぶ彼らの主張に、それに見合った知性を見出せないからです。以下にそれを述べたいと思います。

想像力の欠如

 本書の16ページに、安倍総理は想像力が欠如している、という主張がありました。その文章を書いている方は、安倍総理も自分と同じく戦後生まれだが、自分には戦場での凄惨な状況が想像できる、知性に裏付けられた想像力がある、しかし総理にはそれがないから安保関連法案を通そうとするのだ、というものです。
 そうかもしれませんが、この文章を書いた方もまた想像力が欠如していると思います。確かに、戦争は凄惨なものであり、よい行いではありません。戦わずに話し合いで問題を解決できれば、それが最善です。しかし、争いのある相手が常に話し合いに応じてくれるのか、という点に問題があります。
 そもそも、話し合う余地がない、と考えている相手に悠然と「話し合いましょう」と問いかけて、双方が冷静になれるという事はちょっと考えにくいのではないでしょうか。SEALDsの主張に想像力が欠如しているな、と感じる点のひとつはこういった紛争の相手国の反応を考えない、誠実に話し合えばわかってくれる、という自分たちの理想や主張を無意識に押しつけるところが見えるからです。
 相手の立場になって考える、というと相手の気持ちにより添って接する優しさのように理解する人が多いと思いますが、それは一面だけの見方です。
 相手が熱くなっていて、まともに話せる状況ではないなら、距離を置くなりして冷めるを待つのもまた、相手の立場になって考えることになります。距離を置こうとしても相手が引かない、なおも攻めたてようとする場合、こちらもまた反撃する姿勢を見せて相手をひるませることも必要でしょう。それでもなお、ひるまず攻め込もうとするのならば相手も生かしつつ自らも生き残るために、適切な反撃をしなければなりません。こうして、双方が冷静になれるチャンスを待つことも大切なのです。
 しかし、SEALDsに限ったことではありませんが、平和運動のようなことをされている方々に多く見られるのが、この「誠実な話し合いの押しつけ」です。冷静に誠実に話し合うことは大切ですが、こちらが話したいと思えば相手も合わせてくれる、という前提を無意識に持ってしまうところに、知性や想像力の欠如を感じるのです。

強行採決って何だ?
 この本の随所に踊っている単語のひとつに「強行採決」がありました。野党の理解が得られず反対が強まる中、与党議員のみで採決を強行した、というニュアンスでしょうか。
 では、強行ではない採決って何でしょうか。全議員が賛成するということでしょうか。それは全体主義になってしまうのではないでしょうか。たった一人の反対に議会全体が左右されてしまうのではないでしょうか。これが極端な例だとするなら、何人の賛成が得られれば強行採決ではないのでしょうか。
 SEALDsがデモで行ったコールに「民主主義ってなんだ」というものがありましたが、多数決は民主主義というシステムにおいてきわめて重要な要素です。多数決だけが民主主義ではありませんが、しかし軽視してはいけないものなのです。
 ついでに言うと、強行採決というものは野党にとっても都合の良い仕掛けです。つまり、いずれにしても採決で負けてしまう野党が、世間に対して抵抗する姿を十分に見せることができる、政治的パフォーマンスの側面があるのです。そのため過去には、採決の時間を野党が誤解していたために欠席してしまい、これに気を遣った与党が強行採決のやり直しをした、と思われる事態も起きています。こうした大人の悪知恵を知ることもまた大切です。

語られた言葉の真意は
 本書の14ページには、ワーテルローの戦いでナポレオンを破ったウェリントン公の言葉が引用されていました。「本当に勝ったのは、戦いをしない国だ」というものですが、これを幾多の戦場を見てきた彼にして戦争しないことの重要性を悟っていたのだと引用した著者は評しています。
 しかし、ウェリントン公がそう語るのは、単に戦争の悲惨さを否定するという単純な意味ではないだろうと私は思います。彼は政治家としても首相まで務めましたが、生涯軍務を愛し、あらゆる意味で大英帝国の軍人と呼ぶべき人物でした。
 ウェリントン公の得意とした戦い方は、用意周到な防御戦でした。孫子「善く戦う者は、先ず勝つべからざるを為して、以て敵の勝つべきを待つ」と述べておりこれは戦う際にはまず陣を固めて負けない体勢とし、その上で不利な状況で敵が飛び込んでくるのを待つというもので、まさにウェリントン公が体現した戦い方です。その孫子はまた「百戦百勝は善の善なる者に非ざるなり。戦わずして人の兵を屈するのは善の善なる者なり」とも述べています。そこにはいずれも如何に戦争に勝つのか、そしてそもそも勝利とは何かという視点があり、ウェリントン公も同様な視点を持っていたと思います。だからこそ「本当に勝ったのは」という勝ち負けの見方をしているのでしょう。
 付け加えると、ウェリントン公は晩年に陸軍総司令官に就任し死去する1852年まで務めましたが、シビリアンコントロールを嫌い軍制改革に慎重であったことも覚えておきたいところです。
 このように、歴史上の著名人の発言を取り上げるならば、その人物の足跡をも理解した上で引用しなければそのニュアンスは掴めないと思います。安易な引用は、一歩間違うとデマと同じ効果を持ってしまいます。知性ある訴えをしたいのであれば、大変でしょうが学ぶ努力を怠らず、歴史から本当の教訓をくみ取るよう研鑽を積んでもらいたいと思います。

民主主義って何だ?
 デモではこのコールの後に「これだ!」と叫んでいました。本のタイトルも「民主主義ってこれだ!」でしたが、これってどれのことでしょうか。
 このSEALDsの皆さんの感性は、若いと同時に未熟だと感じます。彼らのデモや本での主張に、民主主義というシステムや意味について深い考察や議論は見当たりません。強いて言えば「アベ政治は俺たちの感性に合わないんだ!」ということを主張しているように感じます。
 しかしながら、SEALDsの主体は大学生であると考えますが、それならば大学生としての知性をもっと見せて欲しいのです。感覚や雰囲気で叫ぶだけなら、大学まで進学しなくてもできます。今までのところ、SEALDsの主張に野党や従前の市民運動家などの主張を超える、知的で深みを感じさせるようなものは見当たりません。かわりに所々に見られるのが「バカな俺たちにもわかる」というニュアンスをもったさまざまな言葉や姿勢です。
 でもSEALDsの皆さんの大半は、やはり大学という最高学府に学ぶ大学生なのです。中学生程度の知識と感覚でいられては困ります。「民主主義って何だ?これだ!」という極めて短絡的なコールに、熱意は感じても知性を感じることはできません。
 さらにもうひとつ厳しいことを述べますと、SEALDsの皆さんは今までにないスタイリッシュなデモをしようとしていたようですが、何かの政治的な主張を短いフレーズにしてリズミカルにクールに訴えるというスタイルは全くダメとは申しませんが、あまり感心できません。というのも、過去の様々な戦争でもわかりやすいリズムやメロディーで戦争や敵国への憎悪を煽った例は枚挙に暇がないのです。わかりやすさは疲弊している人々の思考を妨げ、感情に訴えることによって理性を失わせ残虐な行いに誘うこともまた可能であり常道なのです。

礼節と教養を
 最後にSEALDsの皆さんに求めたいのは礼節です。デモやネット上で彼らが発した様々な罵詈雑言は見るに堪えないものです。自らの主張が正義であり正しいものであり、相手のそれは不正義であり誤りであるとしても、それが相手を口汚く罵ってよい理由にはなりません。知性に裏付けられた主張をするのであれば、冷静さは不可欠であり相手にもまたそれを求めて話し合いがしたいのであれば、罵詈雑言を発することは間違いです。
 そして、相手が罵詈雑言を発するから自分たちも応戦するのだというものであっても、やはり話し合いにはなりません。先に「誠実な話し合いの押しつけ」について述べました。それでもなお話し合おうとするなら待ったり耐えたりしなければなりません。知性と冷静さに併せて忍耐力も必要なのです。SEALDsの皆さんは、長く大変な準備をし長時間のデモにも耐えたのですから忍耐力は備わっているはずです。それをぜひ知性と結びつけて頂きたいと思いますしできるはずです。
 そして教養を身に付けて下さい。教養を身に付けるためには、まずはたくさん学ぶことですが、それだけでは足りません。莫大な知識を取り込めば、それらの一部が互いに矛盾していることを知るはずです。皆さんが国会議事堂前でデモをしていたとき、年季の入った方々もたくさんいたはずですが、それらの自称平和運動家の一部は世界の矛盾を認めない人たちです。今回の例では「9条守れ!」と叫んでいたようですが、9条も含む日本国憲法は我が国の国内法であって、他の国々には何ら遵守する義務はありません。だから私たち日本人が戦争を放棄しても、それは他の国々が同じくそうすることを意味しないのです。しかし、そんなことを言って戦争を肯定し続ければ、いつまでたっても世界から戦争はなくなりません。

 理念と現実の狭間で悩むこと、これは教養へのステップです。世界は矛盾装置であることを受け入れるのです。矛盾を受け入れるからこそ、進歩を求めて学び続け前進することができるのです。SEALDsの皆さんの中から、将来我が国を代表するような真の知識人が現れてくることを切に願っております。
posted by しらいし at 01:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 政治・行政

2015年07月17日

北海道新幹線開業に向けて、観光PR用大型ロボット「イカボー11号機」プロジェクト発進!

 昨年より公立はこだて未来大学とロボットフェス・インはこだて市民の会とで検討を続けていた、観光PR用巨大イカ型ロボット「イカボー11号機」の製作に向けて、プロジェクトが走り出しました。
 未来大の学生さん達によるプロジェクトの名前はそのものズバリの「いかロボットプロジェクト」です。
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 この「イカボー11号機」の元になったロボット「イカボー1号機」は、Youtubeなどですっかり有名になったイカール星人のPVに函館を破壊するロボットとして登場していましたが、元々は全高2m・重量200kgの現物が先で、その後デザインをPVに利用したいという申し入れがあって実現したものです。
 今では、イカール星人の方が有名になって「実物も作ったんですね〜」なんて事実と反対のことを言われてしまう始末ですが(笑)何がともあれ、函館のPRになるのは結構なことです。
 さて、今回は1号機を上回る全高3.8mの大型ロボットを目指しています。
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写真左が1号機。右が11号機の想像図

 私が現在、会長をつとめている「ロボットフェス・インはこだて市民の会」(←私は函館市民じゃないのに!)も、これを応援すべく資金集めに奔走していますが、頼もしい学生さん達は自力でその資金を調達しようとしています。その方法はクラウドファンディング。現在READYFOR?というクラウドファンディングのサイトにエントリーしています。
 学生さん達の熱意をぜひ形にすべく、広く皆様にご支援を募りたいと私からもお願い申し上げます!
 以下にREADRFOR?のページへのリンクを示します。
[READYFOR?]
「イカロボットを完成させ北海道新幹線とともに函館を盛り上げたい」
URL https://readyfor.jp/projects/ikabo

以下は、関連リンクです。

[いかロボットプロジェクト Facebookページ]

[ロボットフェス・インはこだて市民の会」
posted by しらいし at 20:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 観光

2015年04月20日

「雇用・防災・福祉・教育」私の政策について

 19日より、北斗市議会議員選挙がはじまりました。議員として、政治家として政策を持つことは当たり前の話ですが、私が今回特に掲げている主な政策は表題の4点です。ポスター.ai.jpg
 どれも大変難しく複雑な政策ですが、ポスターや公選ハガキでは紙面が限られるため、表題のようにキーワードだけを掲げるしかありません。街頭演説ではもう少し詳しくご説明することができますが、演説はその瞬間だけのものなので、ブログにも記しておこうと思います。

雇用について
 雇用というキーワードに集約していますが、平たく言うと産業振興企業誘致ということになります。ほとんどの候補者が口にしているフレーズですが、言う程簡単なものではありません。
 私が注目しているのは、北海道新幹線の開業と農業の振興です。開業まで1年を切った北海道新幹線は、いろいろとデメリットも指摘されていますが、しかし半世紀に一度くらいあるかないかの大きな変化には違いありません。そして、変化はそのままでは振り回されるだけですが、しっかり取り組めばチャンスに転じることができます。
 北海道新幹線の開業によって、関東・首都圏とのアクセスが改善されることはもちろんですが、東北経済圏とはより短時間でアクセスできることになります。道南と東北の歴史的な縁は、私たちが思っている以上に深いものがあります。経済活動は突き詰めれば人と人の結びつきによって成るものです。歴史的な縁は必ずなにがしかの果実を生み出すものなのです。
 農業については、世界の食糧事情から将来の予測がつきます。かつて世界には、全人口の1.5倍から2倍くらいの穀物生産力がありました。しかし、ここ数年その差は縮まっており、食糧自給率(カロリーベース)が4割程度の我が国にとって、これは全く歓迎できないことですが、農業・水産業などの1次産業が基幹産業の北斗市にとっては生産品を高値で売れるチャンスと捉えるべきです。
 しかし、そのチャンスが訪れるまで農地を保全し担い手を確保しなくてはならず、それを農家の自助努力だけでまかなうのはいささか無理があります。そのためにも効果的な農業政策を打つことはとても重要です。

防災について
 私は、8年以上の海上自衛隊勤務とその後の18年に及ぶ予備自衛官としての経験を積んでいます。衣食住が失われたり滞ったりしたらどうなるのか、その時どのようなストレスがかかるのか、どのように行動し、どうしたら困っている隣人を救助できるのか、様々な教育訓練を受けました。
 そんな私だからこそ、見えるものがあります。市町村などの地方自治体は消防を除き「平時の役所」です。普通の職員は、炎に包まれた建物の中に飛び込んだこともなければ、作業服のまま首まで水に浸かって作業をした経験もありません。何日も風呂にも入れず、冷たくて訳のわからない味の食事しか摂れず、堅い床や地面で寝て過ごしたり、2時間おきに寝たり起きたりなどという無茶苦茶な目に遭うこともありません。しかし、自衛官はそういったことも訓練で経験します。だから本番に強くて、困難な状況におかれても簡単に士気は下がりません。
 そして、大規模災害時には同じ地域の住人でもある自衛官は、同じく被災者なのに被災者として振る舞うことは許されず、また望みもしません。それが任務なのですから。
 しかし、市役所の職員などはそういった訓練や経験がないにもかかわらず、大勢の被災者を支えなくてはなりません。自らも被災者なのに、そこを抑えて人のために働くことは、大変ストレスがかかるはずです。だから平時から少しでも多くの経験を積まなくてはなりませんが、そのために私自身の知識と経験を役立てることができると思うのです。

福祉について
 ここでいう福祉とは、広義の福祉である「公共の福祉」ではなく、高齢者や子育て世帯など一般的に社会的な保護を必要としている件についてです。
 私はもともと高齢者という言葉は嫌いです。単に年齢が高いという意味しか持たないこの言葉に、尊厳を感じないからです。ですから、状況が許す限り「お年寄り」「ご老人」、場合によっては「先輩」と呼ぶようにしています。
 今日までこの国と地域社会を築いてきたのは、そのお年寄りでありご老人であり大先輩達です。70年前、焦土と化したこの国を立て直したのも先輩達であり、150年ほど前に西洋列強の植民地政策を寄せ付けず、近代化への道を歩んだのも先輩達。世界に誇る様々な文化や芸術を生み出したのも歴史上の大先輩達です。
 私たちのような、より若い世代はこの先輩達が築いた国と地域社会で生まれ育ち、これを引き継ぎ、よりよいものにしなければなりません。そして、艱難辛苦に耐えた先輩達に敬意を持って接し遇さねばなりません。
 そのためには、まず先輩達を尊敬し誇りを感じてもらわなければなりません。私はこの先輩達を高齢者と称して社会的弱者として扱うことに疑問を感じます。
 そして、社会をより良くしていくためには、次世代を育んでいかなければなりません。そのためには、子育て世帯に手厚い政策を立案実行していくことは自明の理であると考えます。

教育について
 先にも述べましたが、次世代を育んでいくことは社会をより良くしていくための絶対条件です。公共事業というと、道路や橋、上下水道などの整備や施設・建物などの建設をイメージしますが、最も価値のある公共財は社会を構成する「人」そのものです。その人をつくるための教育こそ、最高の公共事業なのです。
 長期の展望を持った教育行政は何にもまして私たちの将来を担保してくれます。歴史をひもとけば、教育をおろそかにした国に長期の繁栄と生存はありません。

 以上のような内容の街頭演説をしております。それぞれの内容はおおざっぱなものですが、もっと詳細に語ると時間がかかりすぎるので、どうしても概念論的にしかなりませんが、どこかで見かけたときにはお耳を貸していただけると光栄です。
posted by しらいし at 02:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 政治・行政

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