2015年01月25日

ネット社会における「ヒト」とは何か

 前回の記事から、はや6ヶ月もブログを放置してしまいました。多忙故ではありますが、いささか反省しているところです。

 2015年1月3日から5回シリーズで放送予定の、NHKスペシャル「NEXT WORLD 私たちの未来」という番組が、テクノロジーによって大きく変化する近未来世界をリアルに描き出していると、なかなか好評なようです。
 残念なことに、私は第1回、第2回の放送を見逃してしまい、「第3回 人間のパワーはどこまで高められるのか」から見ています。
 さて、個人的に大変気になっているのは「第4回 人生はどこまで楽しくなるのか」の内容です。番組宣伝やWebサイトによると、デジタルクローンというテクノロジーについて触れています。サイトでは「人生の記録をデータで保存し、死後、それをもとに、デジタル空間上に、意識・人格を再現しようという試み」という説明がありました。番組宣伝の映像では、死後に再生された母親が娘に「会いたかった」と語りかけるシーンがあり、なかなか印象的です。
 10数年ほど前になりますが、これと似た概念について考えたことがあります。番組を見た後では単なるパクリ話になってしまうので、放送前日に慌ててこの記事を書いていますのであしからず。

 以前、考えていたその概念というヤツですが、ヒトの五感の情報をいかにネットを通じて伝えるかという話が、出発点となります(ヒトの感覚は5つ以上あることが知られていますが、話を簡単にするためにここでは五感と表現します)。現在では色覚や聴覚について映像や音声として不完全ながらも伝えることができています。触覚や味覚、嗅覚、さらには内臓感覚や平衡感覚などもデータ化しネットを通じて伝送可能となった未来社会ではどのようなことが起きるでしょうか。
 ヒトの様々な感覚を伝送でき、同時にヒトと同様な運動が可能なロボットが実用化されていれば、遠隔医療や危険作業に威力を発揮することでしょう。この場合、ロボットの方は全身である必要はなく、腕や目、耳、感覚器としての皮膚などが部分的に実現できていればよく、高コストでも実用化を急ぐ価値があるため、技術的にメドが付けば比較的早期に出現するのではないかと思います。
 ある程度コスト度外視で実用化が進めば、小型化や低コスト化し、自立歩行が可能なヒューマノイド(人間型ロボット)が出現し、これをコントロールできるようになるでしょう。コントロールに際して、そのヒューマノイドの受ける様々な「感覚」を自分の身体でダイレクトに受け取れるわけですから、コントロールしているというより自分の分身と呼べるものになるでしょう。
 こうして「もうひとつの身体」を手に入れることができるようになると、次には軍事利用されることでしょう。死を恐れない兵士ほど敵に回して厄介な相手はいませんから、命を危険にさらすことなく作戦行動をとれる「もうひとつの身体」は、まさに理想的な兵士であり、また高度で特殊な戦闘技術を持つ優秀な兵士を、消耗することなく戦地に送り出し続けることができるとなれば、軍の人員そのものを減らすことができるため、コスト削減にもつながる一挙両得なテクノロジーといえます。
 軍事利用により、量産化による低コスト化が進めば、それまで導入できなかった分野でも「もうひとつの身体」を購入し、利用するようになるでしょう。
 看護や介護の分野のみならず、受付や飲食店などの接客をともなうサービス業、様々な肉体労働、ついには自分自身の付き合いや娯楽、スキンシップやセックスまでも「もうひとつの身体」でこなすようになるかもしれません。

 ここまでで、少し立ち止まって考えてみましょう。「もうひとつの身体」をコントロールするために、その身体の五感をネットを通して受け取り、そして「もうひとつの身体」をネットを通じて動かすわけですから、ヒトの生きていくために必要な感覚と行動の全てがデータ化されてネットを行き来することになります。好むと好まざるとにかかわらず、データに変換できない物理的な肉体そのものを除いた、情報としてのヒトの全てをデータ化しネットに載せることになるのです。ネットを介して複数の身体を持つ未来の社会では、感覚や記憶、自ら発する言葉や行動のデータ、人格の断片と行ってもよいそれらのデータを記録し拡散させる社会となることでしょう。
 そのような社会で、人格の編集と再利用が行われるのは時間の問題です。
 ネットと「もうひとつの身体」によって時間と空間の制約から逃れた人々にとって、社会を構成する個人とは、記憶や知識や経験などの情報が集積されネット上で自律的に活動する情報の集積体としての側面が強くなり、それがデジタルデータの集まりである以上、複製や編集、再利用することは容易になります。
 ネット上に無数のデータ化された人格の断片が存在しているのに、つまらなルーチンワークのようなことや危険をともなうローテクな作業、公然と行えない不法な行いを、わざわざオリジナルの人格に人件費を支払って依頼することは不経済であるという考えに至るだろうことは容易に想像が付きます。
 誰かが、その辺に行き交う人格の断片をコピーして組み合わせ、模造の人格を安価に創り出そうと試みる可能性は十分にあるのです。

 そもそも、ITが出現する前から、人格のデータ化は進行してきました。ヒトは孤独であり、かつ孤独ではいられない生物です。生きていくために他者を必要とし、相互理解を得ようとします。しかし、互いの意識を共有したり融合したりすることはできません。そのために表情や身振り手振り、ふれ合い、そして言葉を発達させて互いの意思を確認し合おうとしてきました。やがて言葉は文字を生み出し、粘土板や木片、パピルス、羊皮紙、紙など記録するための媒体を発達させることにより、時間と空間を超えて意思を伝えたり記録できるようになりました。
 紙の上に書かれた文字には、肌のぬくもりや柔らかさ、息づかいや表情もありません。その代わり、声も届かない距離と時間を隔てて自らの意思をある程度伝えることができる。受け取る相手にとって、その紙と文字は肉体から切り離された人格の一部となるのです。
 そして、時間と空間を超えるということは、人格の源泉である肉体の生死と、情報としての人格の存在に時間差が生まれるということなのです。仮に、手紙を出した後すぐにその人が死んだとしても、それを受け取る方にとっては、生死を知らされない限りまだ生きていると感じて、手紙を読むことでしょう。物理的な肉体の死と、社会を構成する人格の死が同期しなくなるのです。
 この傾向は、将来のネット社会にとってますます顕著になると考えられます。五感が行き交い記録されるネットにおいては、元の肉体が消滅してもなおネット上に莫大な量の個人の情報が残され循環すれば、肉体の死と情報体としての死は、もはや切り離されてしまうかもしれません。

 人間とは何か、私達は何者で、どこから来て、どこへ行くのか。
 哲学で長きにわたり議論され、どれほど語り尽くそうとも結論の見えない命題ですが、人格が肉体を必要とせず、データ化することが可能になるかもしれない未来のネット社会が到来したとき、私達全てに否応なしに突きつけられることなるだろうと考えています。
posted by しらいし at 02:32| Comment(1) | TrackBack(0) | IT

2014年06月23日

政治の力を過信してはいけない

 先日、私のことを師匠と呼んで慕ってくれている若い女性から、結婚しますとの報告をいただきました。私にとって大変感慨深いその知らせに、市役所での会議中にも思い出してはついニヤニヤしてしまいました。何がともあれ、人の幸せに触れて暖かい気持ちになれる、それを祝福できるということはとてもありがたいことです。
 以前、その彼女に「政治の役割と人々の幸福実現」についての関係を話したことがありましたが、いい機会ですのでこの点についての私の理念をお話ししたいと思います。

政治の力で人々を幸せにするという幻想
 見出しの通り、政治の力で人々を幸福にするなどという考えは幻想であり、おこがましいものである、と私は考えています。しかし、こう言ってはいささか失礼な表現になりますが、真面目で真剣に政治に取り組んでいる政治家の方々には、この幻想にとりつかれている方が多いと見受けられます(実際、これを話した何人かには怒られました)
 私の考える政治の役割は主に調整と決断です。まずは調整という考え方から説明します。

愛と調整と文化の力
 まず、人々を幸せにする力とは何でしょうか。「愛」の力だ、と言う方も多いと思います。かのマーガレット・サッチャーも、あるインタビューで自身の政治にとって何が最も大切な要素かと聞かれて「愛だ」と即答していました。
 しかしこの愛という力は実に力強く根源的なものであり、そして個人に直接作用する力でもあるため、そのままでは暴走したり衝突する危険を孕んでいます。
 禅問答のようになりますが、隣人を愛する心が平和を創り出すと同時に戦争も生み出します。なぜでしょう。
 例えば、愛する人が他人との利害の衝突の末に傷つけられたり失ったりした場合、その悲劇の向こう側の当事者に対して敵愾心が生まれ報復を求めるようになるかもしれません。そしてその報復を果たした時、それによって傷つけられた相手にもまた、その人を愛する誰かがいて報復を誓うかもしれません。
 多くの場合、愛する心が強いほどそれが及ぶ範囲は狭くなり、その心と心が何らかの形で衝突してしまった場合、報復合戦になる危険があります。
 ひとりの愛の心が世界の隅々まで届くなら、遍く人々に分け隔てなく愛を注げるなら、そしてそんな心を持つ人々で世界を満たせるならば、世界に平和が訪れるかもしれません。
 しかし、そんな偉大な聖人は渚の砂の一粒くらいしかいないように思われます。私たち人間の大部分は、手の届く範囲しか愛せない小さな世界の住人なのです。
 だからこそ、人々の利害が衝突したときには引き離して冷静にさせなければならないのです。そして、ただ引き離すだけでは解決しません。衝突した双方になんとか受け入れてもらえる案を提示し、引き合わせる必要があります。これが調整です。
 調整の結果、衝突していた双方は冷静さを取り戻し、とりあえずの争いはなくなったとしても、その双方に笑顔を取り戻すには足りません。争ってはいないが、よそよそしい見知らぬ他人同士になっただけです。
 人々に笑顔を取り戻すために最後に必要になるものは「文化の力」です。美味しい食べ物や飲み物でもいいですし、楽しい音楽や映像、踊りの賑わいでもよいでしょう。人々を楽しませ和やかに出来るものは政治ではなく、文化や芸術に類する力なのです。
 政治家諸兄には「私たち政治家は、最後の切り札だけは持っていない」ということを理解してもらいたいと考えています。

決断のという言葉の重み
 当事者が2者しかいなければ、双方をすっきりと和解させることも可能かもしれませんが、当事者が多数で利害の対立が複雑なものになった場合、全ての当事者を納得させることはできなくなります。しかし、とり得る選択肢が限られいる場合には多数の幸福のために少数の不幸を選択しなければならなくなることでしょう。この少数を切り捨てることが決断です。
 決断、というと物事を明快に決めて行動すること、のように思う方が多いと思いますが、それは決断という熟語の「決」の部分だけです。決断とは「決めて、断つ」つまり何かを切り捨てて前進するということなのです。
 少子高齢化という問題を例に考えてみましょう。この社会問題の当事者は、一方が子育て世代の家庭(予定者も含みます)であり、もう一方はご老人方です。この両者に対して潤沢な予算と人員(リソース)があるなら、それぞれについて必要な施策を行えばよいですが、現実のリソースは限られています。結果としてどこかに重点を置いてリソースを投下し、それ以外は手当てしないということになります。手当てされない当事者は社会から見捨てられたと感じるかもしれません。だからといって、全ての問題と当事者に薄く広くリソースを配分したら、何の成果も上げられなかったという事になることでしょう。誰に手を差し伸べるのか、ということは誰に手を差し伸べないのかということにもなるわけです。だから「決めて、断つ」になるのです。
 したがって本当の「決断」をしたら必ず誰かの恨みを買うことになります。その恨みを買う覚悟もなしに政治家を名乗ってはいけないと私は考えます。
 さて、多数の幸福のために決断をして、ある少数を切り捨てたらそれだけで良いのでしょうか。もちろんダメであることはお分かりと思います。痛みを伴う施策にはいわゆるセーフティーネットというものも用意する必要があります。
 切り捨てる対象になった方々に絶望を用意するのではなく、それまでの利益や利便を諦めてもらうにとどめ、違う道を用意することもまた政治であると言えます。

所詮は神様のヘタな真似事
 ずいぶん以前のことになりますが、京急東横線に乗って東京都内に移動していたときのことです。夕方頃だったので、沿線沿いのアパートやマンションなどの窓に灯りが滲んでいました。どの窓にもそれぞれの家庭があって、たくさんの人々が生活を営んでいるんだよな、と思いが至ったとき、同時にゾッとしましまた。
 ひとりの人生でも十分大問題なのに、それを統計の問題でも解くかのように一山いくらで政策としてまとめたり論じたりしている。本当ならそんな大それた事は神様しか出来ないのに、しかし様々な社会問題を前にしてその問題解決のために神様は降臨してくれない。だから我々不完全な人間が神様の下手くそな真似事をして、人々の生活を調整したり制御したりしようとする。下手くそだからいつも間違いだらけだ。こんなことを続けていたらいつかバチが当たるんじゃないか、と感じたわけです。
 こんな自己矛盾感を抱えながらも政治の道を続けてきたのは、自分にとって大切な人たちのために、その人たちが依存している社会を支えていかなくてはならないとの思いからです。

 大切な人たち全てを幸福にするなんて大それた事はできません。幸福追求はそれぞれの人生で行うことであり、そして私もその中のひとりの人間に過ぎないからです。しかし、それぞれの幸福を追求するための明日を担保し続けること、これは政治の力で出来るかもしれません。
 私の愛弟子がこの先どのような人生を歩むのかはわかりません。ただ、その生きていく先々での幾多の選択について、社会が原因となって希望を断つことなく、最良の選択をし続けられるよう私達の社会をより良くしていく仕事をしたい。たとえ微力であっても努めていこうと思いを新たにしました。
posted by しらいし at 22:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 政治・行政

2014年05月18日

我が国の集団的自衛権というお題目は勘違いの円舞

 ここ最近、集団的自衛権という言葉が世間を賑わせていました。我が国が戦争に巻き込まれるとか、戦争のできる国になっちゃうとか、憲法解釈を変えるのか改憲しなければいけないのかなど、実にズレた議論に終始した感があります。
 本当に、我が国のマスコミやコメンテーターの先生方、政治家とか専門家ということになっている方々は、安全保障に関して弱い向きが多いです。弱いだけなら仕方ないかとも思いますが、理解が及ばないのに分かったように自信たっぷりと妙な自説を展開するから、いつまでたっても話がまとまりません。

 我が国は、集団的自衛権というものを戦後ずっと行使し続けてきました。それだけでなく、世界平和を希求する憲法を持ち国連による平和的な紛争防止や解決を重視する我が国の立場やあり方を考えた場合、集団的自衛権を否定することはできないはずです。

国連による平和構築と集団的自衛権は切っても切れない関係
 実は集団的自衛権という概念は、国連憲章第51条で個別的自衛権とともに定義されています。その条文を以下に引用します。
この憲章のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない。この自衛権の行使に当って加盟国がとった措置は、直ちに安全保障理事会に報告しなければならない。また、この措置は、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持または回復のために必要と認める行動をいつでもとるこの憲章に基く権能及び責任に対しては、いかなる影響も及ぼすものではない。

 個別的自衛権という概念は国連憲章成立以前から国際法上の国家固有の権利として承認されていましたが、集団的自衛権についてはこの憲章によって初めて定義されたと考えられます。国連はなぜこの権利を必要としたのでしょうか。
 これには、国家間の軍事的紛争の発生とその経過、結末を考えなければなりません。もし、ある2国間で軍事的緊張が高まり武力衝突してしまったとします。その衝突した両国が共に国連加盟国だった場合、国連は安全保障理事会で、停戦や兵力の引き離し、和平に向けた様々なプロセスを用意する、といった措置をとることになっています。
 しかし、その措置をとるためにどれくらいの時間がかかるのでしょうか。武力衝突が起きたら次の週の月曜日にでも国連軍が大挙して出動して解決するとでもいうのなら大変結構なことですが、どう考えても無理な相談です。
 つまり、国連の措置には時間がかかり、その間に強い方の国が他方を殲滅してしまったら意味がなくなってしまうのです。だから国連の措置が効力を発するまで、弱い国は他国と軍事同盟などの関係を構築して集団で自衛して時間を稼ぐ必要がある、という考え方が集団的自衛権につながるのです。
 国連にとって加盟各国が集団的自衛権を行使することは、重要な前提の一つであるということなのです。

日米安全保障条約は集団的自衛権そのもの
 日米安全保障条約(以下、日米安保条約と称します)に限らず、相互防衛を約束する軍事同盟は集団的自衛権そのものと言えます。植民地主義や帝国主義的な国家間競争が支配していた昔なら「自衛的」じゃない攻撃的・侵略的な軍事同盟もあり得たでしょうが、21世紀の国際社会では集団的自衛権の表現型としての軍事同盟以外は難しいと思われます。
 日米安保条約は相互防衛ではなく、米国が我が国を防衛するだけの片務的安全保障条約と主張する方もいますが、実態は米国の軍事力を我が国の防衛に利用する代わりに、我が国を戦略根拠地として提供することにより、米国の国益を守っているのです。ですから、日米安保条約は片務的と言うより非対称的な軍事同盟なのであり、集団的自衛権の一つの行使であるのです。

保持すれども行使せずは詭弁
 上記のような集団的自衛権についての原理や原点についての議論はあまり見られず、枝葉末節な各論だけが目立ちますが、こうなってしまった原因の一つはかつての自民党政権時代に「集団的自衛権について、我が国はそれを保持しているが行使できない」という詭弁を弄してしまったところにあると考えています。情けないことに野党やマスコミなどもその政府見解を屁理屈であると見抜けずに議論の応酬を続けてしまったため、もはや屁理屈と屁理屈の競い合いになってしまっています。
 しかし、我が国は法治国家ですから法的根拠なしに軍事力を利用するわけにはいきません。そして世界の情勢は刻々と変化しており、いつまでも世界に通用しない屁理屈合戦を続けていては、肝心なときにたくさんの人命という高い授業料を払っていろいろと学ぶことになるかもしれません。
posted by しらいし at 01:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 政治・行政

2014年02月22日

選挙戦の最中にご意見頂戴しました。感謝!

 選挙戦の真っ最中ですが本日、私の掲げている政策についてのご批判の葉書を受け取りました。
 批判は主に次の2点からなります。

1.防災対策について
2.食品衛生協会の啓発活動中の写真について


以下に、私の掲げた内容と照らし合わせながらご説明します。

防災対策について
[原文]
 2011年3月の東日本大震災は、いまだに傷が癒えない悲惨な体験でした。北斗市は幸いにも大きな被害はありませんでしたが「災害は忘れた頃にやってくる」の格言通り、いつまた被災するか予断を許しません。
 そして、北斗市にとって津波よりも大きな災害となる可能性があるのは、駒ヶ岳の大噴火です。
 8年以上の自衛隊勤務と、その後の18年におよぶ予備自衛官の訓練で得た、様々な防災対策・危機管理のノウハウを市政に生かしていきたいと考えています。

これに対してのご批判は次の通り
津波より大きい駒ヶ岳の噴火は北斗には山で囲まれているのでこない。不勉強(原文ママ)

 おそらく、この方は噴火による火砕流の話をされていると思いますが、火山の噴火でより甚大な被害を広範囲に及ぼすのは火山灰です。火山灰の種類にもよりますが、5cmも積もれば交通・電力・水道などのインフラがマヒしてしまいます。水分を含むと重くなって固まるために雨が降っても流れるどころか、家を押しつぶすこともあります。
 そして、駒ヶ岳の降灰は歴史上何度も記録がありますし、有史以前にはもっと凄い大噴火もしているようです。その証拠は大野平野の地下に火山灰層として残っています。
 津波対策は確かに大切ですが、いろいろ検討した結果では北斗市に東日本大震災を超える大規模な津波が押し寄せることは、ほぼありません。もしあるとすれば東日本大震災の大きく超えるエネルギーの地震ということになると思いますが、それは例えばマグニチュード10という規模であり、現在までのところそんな地震が発生する可能性があると考えられているケースは、アメリカ・カリフォルニア沖からチリ沖までの全ての断層が連動した場合だけです。


食品衛生協会の啓発活動中の写真について

 これは、政策をまとめたリーフレットに掲載している私の活動内容についての写真の1点についてのことで、食品衛生協会の啓発活動中の写真に私が写っていなくて、現職議員の一人が写っている点を批判したもので、以下の通りです。
 食品衛生協会の啓発活動の写真で本人がいないでどうして1年後の立候補をのせているのか理解に苦しむこれでは票は伸びませんよ(原文ママ)

 問題の写真は「ふるさとの夏まつり」にて行われた渡島食品衛生協会の啓発活動中を写したもので、ステージ上で話しているのは渡島食品衛生協会の会長(当時)で現職の北斗市議会議員の寺澤十郎氏です。
 写真の注釈には、
食品衛生協会の啓発活動(私が撮影しているので写ってません)私も衛生指導員として活動しています
と、していました。

 このご指摘については、なんとも言えないものがあります。よく政治家本人が様々な活動をしているシーンの写真が公表されますが、これは当たり前ですが誰かが撮影しなければ得られません。私の経験では、撮影者をあらかじめ用意しておかない限り、自分の活動中の写真などは、なかなか手に入るものではありません。イベントの現場でスタッフとして働いていると、自分の写真を撮ってもらうよう頼んでる余裕はないのです。
 しかし、写真で活動を伝えることも大切ではあります。実に悩ましい問題です。

 いずれにしろ、ご指摘いただけることそのものは、とてもありがたいことです。できましたら、ご忠告いただいた方の連絡先も記していただけると、さらにありがたいですね。そういう方々とは直接お声を頂きたいですから。
タグ:選挙
posted by しらいし at 07:31| Comment(1) | TrackBack(0) | 政治・行政

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