2014年06月23日

政治の力を過信してはいけない

 先日、私のことを師匠と呼んで慕ってくれている若い女性から、結婚しますとの報告をいただきました。私にとって大変感慨深いその知らせに、市役所での会議中にも思い出してはついニヤニヤしてしまいました。何がともあれ、人の幸せに触れて暖かい気持ちになれる、それを祝福できるということはとてもありがたいことです。
 以前、その彼女に「政治の役割と人々の幸福実現」についての関係を話したことがありましたが、いい機会ですのでこの点についての私の理念をお話ししたいと思います。

政治の力で人々を幸せにするという幻想
 見出しの通り、政治の力で人々を幸福にするなどという考えは幻想であり、おこがましいものである、と私は考えています。しかし、こう言ってはいささか失礼な表現になりますが、真面目で真剣に政治に取り組んでいる政治家の方々には、この幻想にとりつかれている方が多いと見受けられます(実際、これを話した何人かには怒られました)
 私の考える政治の役割は主に調整と決断です。まずは調整という考え方から説明します。

愛と調整と文化の力
 まず、人々を幸せにする力とは何でしょうか。「愛」の力だ、と言う方も多いと思います。かのマーガレット・サッチャーも、あるインタビューで自身の政治にとって何が最も大切な要素かと聞かれて「愛だ」と即答していました。
 しかしこの愛という力は実に力強く根源的なものであり、そして個人に直接作用する力でもあるため、そのままでは暴走したり衝突する危険を孕んでいます。
 禅問答のようになりますが、隣人を愛する心が平和を創り出すと同時に戦争も生み出します。なぜでしょう。
 例えば、愛する人が他人との利害の衝突の末に傷つけられたり失ったりした場合、その悲劇の向こう側の当事者に対して敵愾心が生まれ報復を求めるようになるかもしれません。そしてその報復を果たした時、それによって傷つけられた相手にもまた、その人を愛する誰かがいて報復を誓うかもしれません。
 多くの場合、愛する心が強いほどそれが及ぶ範囲は狭くなり、その心と心が何らかの形で衝突してしまった場合、報復合戦になる危険があります。
 ひとりの愛の心が世界の隅々まで届くなら、遍く人々に分け隔てなく愛を注げるなら、そしてそんな心を持つ人々で世界を満たせるならば、世界に平和が訪れるかもしれません。
 しかし、そんな偉大な聖人は渚の砂の一粒くらいしかいないように思われます。私たち人間の大部分は、手の届く範囲しか愛せない小さな世界の住人なのです。
 だからこそ、人々の利害が衝突したときには引き離して冷静にさせなければならないのです。そして、ただ引き離すだけでは解決しません。衝突した双方になんとか受け入れてもらえる案を提示し、引き合わせる必要があります。これが調整です。
 調整の結果、衝突していた双方は冷静さを取り戻し、とりあえずの争いはなくなったとしても、その双方に笑顔を取り戻すには足りません。争ってはいないが、よそよそしい見知らぬ他人同士になっただけです。
 人々に笑顔を取り戻すために最後に必要になるものは「文化の力」です。美味しい食べ物や飲み物でもいいですし、楽しい音楽や映像、踊りの賑わいでもよいでしょう。人々を楽しませ和やかに出来るものは政治ではなく、文化や芸術に類する力なのです。
 政治家諸兄には「私たち政治家は、最後の切り札だけは持っていない」ということを理解してもらいたいと考えています。

決断のという言葉の重み
 当事者が2者しかいなければ、双方をすっきりと和解させることも可能かもしれませんが、当事者が多数で利害の対立が複雑なものになった場合、全ての当事者を納得させることはできなくなります。しかし、とり得る選択肢が限られいる場合には多数の幸福のために少数の不幸を選択しなければならなくなることでしょう。この少数を切り捨てることが決断です。
 決断、というと物事を明快に決めて行動すること、のように思う方が多いと思いますが、それは決断という熟語の「決」の部分だけです。決断とは「決めて、断つ」つまり何かを切り捨てて前進するということなのです。
 少子高齢化という問題を例に考えてみましょう。この社会問題の当事者は、一方が子育て世代の家庭(予定者も含みます)であり、もう一方はご老人方です。この両者に対して潤沢な予算と人員(リソース)があるなら、それぞれについて必要な施策を行えばよいですが、現実のリソースは限られています。結果としてどこかに重点を置いてリソースを投下し、それ以外は手当てしないということになります。手当てされない当事者は社会から見捨てられたと感じるかもしれません。だからといって、全ての問題と当事者に薄く広くリソースを配分したら、何の成果も上げられなかったという事になることでしょう。誰に手を差し伸べるのか、ということは誰に手を差し伸べないのかということにもなるわけです。だから「決めて、断つ」になるのです。
 したがって本当の「決断」をしたら必ず誰かの恨みを買うことになります。その恨みを買う覚悟もなしに政治家を名乗ってはいけないと私は考えます。
 さて、多数の幸福のために決断をして、ある少数を切り捨てたらそれだけで良いのでしょうか。もちろんダメであることはお分かりと思います。痛みを伴う施策にはいわゆるセーフティーネットというものも用意する必要があります。
 切り捨てる対象になった方々に絶望を用意するのではなく、それまでの利益や利便を諦めてもらうにとどめ、違う道を用意することもまた政治であると言えます。

所詮は神様のヘタな真似事
 ずいぶん以前のことになりますが、京急東横線に乗って東京都内に移動していたときのことです。夕方頃だったので、沿線沿いのアパートやマンションなどの窓に灯りが滲んでいました。どの窓にもそれぞれの家庭があって、たくさんの人々が生活を営んでいるんだよな、と思いが至ったとき、同時にゾッとしましまた。
 ひとりの人生でも十分大問題なのに、それを統計の問題でも解くかのように一山いくらで政策としてまとめたり論じたりしている。本当ならそんな大それた事は神様しか出来ないのに、しかし様々な社会問題を前にしてその問題解決のために神様は降臨してくれない。だから我々不完全な人間が神様の下手くそな真似事をして、人々の生活を調整したり制御したりしようとする。下手くそだからいつも間違いだらけだ。こんなことを続けていたらいつかバチが当たるんじゃないか、と感じたわけです。
 こんな自己矛盾感を抱えながらも政治の道を続けてきたのは、自分にとって大切な人たちのために、その人たちが依存している社会を支えていかなくてはならないとの思いからです。

 大切な人たち全てを幸福にするなんて大それた事はできません。幸福追求はそれぞれの人生で行うことであり、そして私もその中のひとりの人間に過ぎないからです。しかし、それぞれの幸福を追求するための明日を担保し続けること、これは政治の力で出来るかもしれません。
 私の愛弟子がこの先どのような人生を歩むのかはわかりません。ただ、その生きていく先々での幾多の選択について、社会が原因となって希望を断つことなく、最良の選択をし続けられるよう私達の社会をより良くしていく仕事をしたい。たとえ微力であっても努めていこうと思いを新たにしました。
posted by しらいし at 22:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 政治・行政

2014年05月18日

我が国の集団的自衛権というお題目は勘違いの円舞

 ここ最近、集団的自衛権という言葉が世間を賑わせていました。我が国が戦争に巻き込まれるとか、戦争のできる国になっちゃうとか、憲法解釈を変えるのか改憲しなければいけないのかなど、実にズレた議論に終始した感があります。
 本当に、我が国のマスコミやコメンテーターの先生方、政治家とか専門家ということになっている方々は、安全保障に関して弱い向きが多いです。弱いだけなら仕方ないかとも思いますが、理解が及ばないのに分かったように自信たっぷりと妙な自説を展開するから、いつまでたっても話がまとまりません。

 我が国は、集団的自衛権というものを戦後ずっと行使し続けてきました。それだけでなく、世界平和を希求する憲法を持ち国連による平和的な紛争防止や解決を重視する我が国の立場やあり方を考えた場合、集団的自衛権を否定することはできないはずです。

国連による平和構築と集団的自衛権は切っても切れない関係
 実は集団的自衛権という概念は、国連憲章第51条で個別的自衛権とともに定義されています。その条文を以下に引用します。
この憲章のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない。この自衛権の行使に当って加盟国がとった措置は、直ちに安全保障理事会に報告しなければならない。また、この措置は、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持または回復のために必要と認める行動をいつでもとるこの憲章に基く権能及び責任に対しては、いかなる影響も及ぼすものではない。

 個別的自衛権という概念は国連憲章成立以前から国際法上の国家固有の権利として承認されていましたが、集団的自衛権についてはこの憲章によって初めて定義されたと考えられます。国連はなぜこの権利を必要としたのでしょうか。
 これには、国家間の軍事的紛争の発生とその経過、結末を考えなければなりません。もし、ある2国間で軍事的緊張が高まり武力衝突してしまったとします。その衝突した両国が共に国連加盟国だった場合、国連は安全保障理事会で、停戦や兵力の引き離し、和平に向けた様々なプロセスを用意する、といった措置をとることになっています。
 しかし、その措置をとるためにどれくらいの時間がかかるのでしょうか。武力衝突が起きたら次の週の月曜日にでも国連軍が大挙して出動して解決するとでもいうのなら大変結構なことですが、どう考えても無理な相談です。
 つまり、国連の措置には時間がかかり、その間に強い方の国が他方を殲滅してしまったら意味がなくなってしまうのです。だから国連の措置が効力を発するまで、弱い国は他国と軍事同盟などの関係を構築して集団で自衛して時間を稼ぐ必要がある、という考え方が集団的自衛権につながるのです。
 国連にとって加盟各国が集団的自衛権を行使することは、重要な前提の一つであるということなのです。

日米安全保障条約は集団的自衛権そのもの
 日米安全保障条約(以下、日米安保条約と称します)に限らず、相互防衛を約束する軍事同盟は集団的自衛権そのものと言えます。植民地主義や帝国主義的な国家間競争が支配していた昔なら「自衛的」じゃない攻撃的・侵略的な軍事同盟もあり得たでしょうが、21世紀の国際社会では集団的自衛権の表現型としての軍事同盟以外は難しいと思われます。
 日米安保条約は相互防衛ではなく、米国が我が国を防衛するだけの片務的安全保障条約と主張する方もいますが、実態は米国の軍事力を我が国の防衛に利用する代わりに、我が国を戦略根拠地として提供することにより、米国の国益を守っているのです。ですから、日米安保条約は片務的と言うより非対称的な軍事同盟なのであり、集団的自衛権の一つの行使であるのです。

保持すれども行使せずは詭弁
 上記のような集団的自衛権についての原理や原点についての議論はあまり見られず、枝葉末節な各論だけが目立ちますが、こうなってしまった原因の一つはかつての自民党政権時代に「集団的自衛権について、我が国はそれを保持しているが行使できない」という詭弁を弄してしまったところにあると考えています。情けないことに野党やマスコミなどもその政府見解を屁理屈であると見抜けずに議論の応酬を続けてしまったため、もはや屁理屈と屁理屈の競い合いになってしまっています。
 しかし、我が国は法治国家ですから法的根拠なしに軍事力を利用するわけにはいきません。そして世界の情勢は刻々と変化しており、いつまでも世界に通用しない屁理屈合戦を続けていては、肝心なときにたくさんの人命という高い授業料を払っていろいろと学ぶことになるかもしれません。
posted by しらいし at 01:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 政治・行政

2014年02月22日

選挙戦の最中にご意見頂戴しました。感謝!

 選挙戦の真っ最中ですが本日、私の掲げている政策についてのご批判の葉書を受け取りました。
 批判は主に次の2点からなります。

1.防災対策について
2.食品衛生協会の啓発活動中の写真について


以下に、私の掲げた内容と照らし合わせながらご説明します。

防災対策について
[原文]
 2011年3月の東日本大震災は、いまだに傷が癒えない悲惨な体験でした。北斗市は幸いにも大きな被害はありませんでしたが「災害は忘れた頃にやってくる」の格言通り、いつまた被災するか予断を許しません。
 そして、北斗市にとって津波よりも大きな災害となる可能性があるのは、駒ヶ岳の大噴火です。
 8年以上の自衛隊勤務と、その後の18年におよぶ予備自衛官の訓練で得た、様々な防災対策・危機管理のノウハウを市政に生かしていきたいと考えています。

これに対してのご批判は次の通り
津波より大きい駒ヶ岳の噴火は北斗には山で囲まれているのでこない。不勉強(原文ママ)

 おそらく、この方は噴火による火砕流の話をされていると思いますが、火山の噴火でより甚大な被害を広範囲に及ぼすのは火山灰です。火山灰の種類にもよりますが、5cmも積もれば交通・電力・水道などのインフラがマヒしてしまいます。水分を含むと重くなって固まるために雨が降っても流れるどころか、家を押しつぶすこともあります。
 そして、駒ヶ岳の降灰は歴史上何度も記録がありますし、有史以前にはもっと凄い大噴火もしているようです。その証拠は大野平野の地下に火山灰層として残っています。
 津波対策は確かに大切ですが、いろいろ検討した結果では北斗市に東日本大震災を超える大規模な津波が押し寄せることは、ほぼありません。もしあるとすれば東日本大震災の大きく超えるエネルギーの地震ということになると思いますが、それは例えばマグニチュード10という規模であり、現在までのところそんな地震が発生する可能性があると考えられているケースは、アメリカ・カリフォルニア沖からチリ沖までの全ての断層が連動した場合だけです。


食品衛生協会の啓発活動中の写真について

 これは、政策をまとめたリーフレットに掲載している私の活動内容についての写真の1点についてのことで、食品衛生協会の啓発活動中の写真に私が写っていなくて、現職議員の一人が写っている点を批判したもので、以下の通りです。
 食品衛生協会の啓発活動の写真で本人がいないでどうして1年後の立候補をのせているのか理解に苦しむこれでは票は伸びませんよ(原文ママ)

 問題の写真は「ふるさとの夏まつり」にて行われた渡島食品衛生協会の啓発活動中を写したもので、ステージ上で話しているのは渡島食品衛生協会の会長(当時)で現職の北斗市議会議員の寺澤十郎氏です。
 写真の注釈には、
食品衛生協会の啓発活動(私が撮影しているので写ってません)私も衛生指導員として活動しています
と、していました。

 このご指摘については、なんとも言えないものがあります。よく政治家本人が様々な活動をしているシーンの写真が公表されますが、これは当たり前ですが誰かが撮影しなければ得られません。私の経験では、撮影者をあらかじめ用意しておかない限り、自分の活動中の写真などは、なかなか手に入るものではありません。イベントの現場でスタッフとして働いていると、自分の写真を撮ってもらうよう頼んでる余裕はないのです。
 しかし、写真で活動を伝えることも大切ではあります。実に悩ましい問題です。

 いずれにしろ、ご指摘いただけることそのものは、とてもありがたいことです。できましたら、ご忠告いただいた方の連絡先も記していただけると、さらにありがたいですね。そういう方々とは直接お声を頂きたいですから。
タグ:選挙
posted by しらいし at 07:31| Comment(1) | TrackBack(0) | 政治・行政

2014年01月11日

最後の命令

 来月、北斗市議会議員の補欠選挙が実施されます。私も出馬すべく準備に奔走しているところです。そんな日々の中で「自分の原点とは何か」ということを繰り返し考え思い起こしていますが、いくつかある「原点」のひとつについてお話ししたいと思います。

 もう17年以上前の話になりますが、平成8年6月30日にそれまで8年3ヶ月勤務した海上自衛隊を退職しました。最後の勤務地は松前警備所でしたが、退職日の朝に警備所長に挨拶をしたときのことです。
 「今まで海上自衛隊のためにずいぶんと貢献してもらった。これからは民間人として社会に貢献してもらいたい」という言葉を頂きました。
 海上自衛隊に貢献した、とは多分にリップサービスもあろうかと思いますが、それにしても衝撃的だったのは後半部分の「民間人として社会に貢献してもらいたい」の部分でした。
 いささか大げさかも知れませんが、私はこの言葉を自衛官として受ける最後の命令だと思ってしまったのです。さらっと受け止めれば、それほど大げさではない月並みな言葉だと思います。所長もそういったニュアンスでおっしゃったのかも知れませんが、とにかく私にとっては全く忘れることのできない命令となってしまったのです。そして、この命令は取り消されたり任務を完了して報告することができません。なぜなら民間人になった私には報告すべき上官がいないからです。なので、ずっとこの任務は続くことになります。
 ここまでお読みになって、馬鹿げたことを言っていると思われることでしょうが、しかし人生を決める言葉なんてこんなものでしょう。
 だから、私の「社会に貢献する」という任務は終わらないのです。最後の命令に従うこと、それが自衛官だった者としての矜持ですから。
posted by しらいし at 05:09| Comment(2) | TrackBack(0) | 政治・行政

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