2013年12月08日

「知る覚悟」はあるか -特定秘密保護法の成立をめぐって-



 6日深夜、機密を漏らした公務員らへの罰則を強める特定秘密保護法が参院本会議で採決され、自民、公明両党の賛成多数で可決、成立しました。
 この法律を巡る議論は実に混乱したものとなりました。特に反対派は「知る権利」の侵害であるとして激しく反対しました。法律の詳しい内容については繰り返し報道や解説されていますので、ここでは少し異なる視点でこの法律を取り巻く状況について、いくつかの問題を述べたいと思います。

秘密保全は十分か
 まず、秘密の保護について従来の法律では足りないのか、という問題です。もし、我が国が鎖国をしていて、一切の貿易も海外旅行も行わない、国際社会にも絶対かかわらない、自国の防衛能力は無敵の強さで如何なる国も侵略を試みない、という状況であれば秘密の扱いは今までの水準で十分でしょう。しかし、上記の仮定がバカバカしいものであることは論を待たないでしょう。現実の我が国は、世界との関わりなしには生存していけません
 国際社会の中で生きていく以上、他国についての様々な情報(インテリジェンス)を常に必要とします。そしてそれらの情報の一部それも少なくない一部は自分達の持つ情報機関だけでは収集できません。
 たとえば、今年1月にアルジェリアのイナメナス付近で発生した人質拘束事件では、安倍首相が事件発生の翌日夕刻にイギリスのキャメロン首相と会談していました。しかし、事件の発生場所や背景から考えると当事国以外で、最初にコンタクトをとるべき国はフランスだと思われます。しかし、フランスに対して現地の状況や事件解決のためのアルジェリアの行動について情報の提供を要請したとして、はたして応じてもらえるでしょうか。同盟国のアメリカですら我が国に対して重要な情報を伏せてしまうことがあるのに、そこまで関係の深くないフランスが我が国のために重要な情報を提供するとはとうてい考えられません。なぜなら、我が国は秘密情報の保全について極めて管理の甘い国だと認識されていて、そして秘密を保つべき重要情報は、時として人的消耗と引き替えに入手することもあるからです。どこの国であっても日本の国益のために自国のエージェントの消耗(場合によっては死を意味します)を受け入れたりはしません。
 現在の我が国は、秘密保全の能力は低いと言わざるを得ません。重要な情報を入手したいならば、自国の情報収集能力を磨くこと、他国から仕入れた情報を軽々に漏らさないことが必要です。十分な情報がないまま、我が国の経済を支えるために世界の資源地帯に同胞を送り込み続ければ、今後もアルジェリアでの人質拘束事件のようなリスクを負い続けることになり、そのために異国で非業の死を遂げる人々を出し続けることになるでしょう。

権利と義務
 今回の騒動では「知る権利」という言葉がずいぶんと振り回されました。確かに知る権利は健全な民主主義社会を築いていくためにとても大切な概念です。しかし、権利には義務があることをしっかりと考えているでしょうか。
 知る権利に対する義務とは何か、それは「知った者の義務」つまり当事者になるということです。知る権利とは、つまるところ自らの社会で進行中の出来事を知ることで、その出来事に対して意見や賛否を表明することにつながるものと考えられます。だから知ることは当事者になることなのです。
 知ってしまった以上、知らなかったことにはできません。マスコミや知識人・有識者を自称する人など、知る権利をことさらに主張する方々は果たして「知る覚悟」をお持ちなのでしょうか。自分の知らないところで何かを決められたり行われることはイヤだが、知った事が面倒なようなら知らないふりをしたり、安易な反対を唱えるだけならば、それは義務を果たす姿勢とは呼べないと思います。
 知る覚悟を持つつもりが無いのであれば、知る権利もまたそれなりにしか手に出来ないことをよく考えていただきたいと思います。
posted by しらいし at 02:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 政治・行政

2013年11月25日

「一票の格差」は本当に問題なのか



 今年春に札幌や広島、名古屋ほか各地の高裁で昨年末の衆議院選挙の違憲や選挙無効判決が相次ぎました。11月20日には最高裁で、これらの判決からはやや後退した「違憲状態」という判決が出て、違憲訴訟を進めていた原告団からは落胆の声も出たりしましたが、いずれにしろ合憲ではないという判断が下されたことに変わりはありません。
 最高裁判決の後、日本経済新聞が発表した世論調査でも格差の早期是正を求めている意見は59%に上ったと報じられました。

一票の格差は大都市対地方
 確かに、一票の重みが地域によって異なることは憲法に記されている「法の下の平等」に反しています。しかし、単純に議席数を人口に比例させることが国民の権利を守り自由と安全を維持し続ける手段たり得るのでしょうか。

 国政における議席配分と人口の格差は、大都市の方が価値が薄く、人口の少ない地方ほど重くなる傾向があります。これは、大都市に住む人々の意見よりも地方の意見の方が国政上重く扱われることを意味します。この格差は現在、最大で2倍を超えています。
 これだけ見ると確かに国政上の不平等が存在します。では、地方の議席を減らして大都市の議席を厚くするべきなのでしょうか。
 私は、ここに有権者の資質が問題になると考えています。当たり前のことですが、国会議員は衆参問わず、必ずどこかの地域から選出されてきます。そして、有権者は必ずしも国全体のことを考えて投票するわけではありません。それどころか、地域への利益誘導を願って投票する人々はたくさんいます。そもそも全ての国民が地元の事情を顧みず国益だけを考慮して政治に参加できるなら、選挙区は全国区のみでよく、それどころか国会そのものの必要性も薄れます。現実には、有権者の思考は地元利益優先に成らざるを得ないので、多数の選挙区と議席を用意して議会の上に国民のバラバラな意見の全体像をある程度再現しようとしているのです。

地方偏重は不合理か
 ここで考えていただきたいことは、多くの有権者は地元の表面上の姿しか見えていないという点です。例えば、東京の有権者は地方の有権者に比べて、一票の重みが低くなりますので、自分たちの意見は蔑ろにされていると感じていることでしょう。東京の方々、またそこから選出される政治家達も「東京は単独でちょっとした独立国よりも大きな経済力と人口規模がある」という意見を口にすることがあります。だから、現状の格差は地方の犠牲になっているという話になります。
 本当にそうでしょうか。様々な統計資料からは、東京は単独では数日と持たないという結論が導き出せます。地域ごとの食糧自給率で見ても東京のそれは1%程度、理屈では東京は自分たちの消費する食糧のうち自分たちで生産できる量は3日分だということになります。水もエネルギーも東京は自らの領域内では確保できていません。事故を起こした福島第一原子力発電所で生産されていた電力のユーザーの大部分は東京都民だし、民主党政権時代に迷走した群馬県の八ッ場ダムもそうです。東京は自らの手では食糧も水もエネルギーも確保できないのです。もし東京が独立国となったと想定すると、これら生きていくために不可欠な資源の確保に莫大なコストを払うことになるでしょう。生活や都市機能を維持していくための様々なコストは高騰し、都市は衰退を免れないでしょう。
 これは、東京に限らず大都市は概ねこのような状況です。大都市は地方がないと生きていけないのです。
 しかし、問題は大都市の市民はその実情をあまり理解しないところにあります。だから、過疎や不景気に苦しむ地方に対して「好き好んで地方に住んでいるのだから自己責任だ」という暴言を吐くのです。もっとも地元のことしか見えていないのは地方も同じで、大都市には国家経済におけるエンジンの役割を担っていることを忘れがちです。
 ただ、地方は大都市が無くなっても貧乏ながらにやっていけますが、大都市は地方が無くなると瞬く間に干上がってしまうという点に留意する必要があります。
 私が「一票の格差」について問題なのか、という論点を持つのはこの点からです。大都市側が自らの生存について地方に依存してる状況がある以上、ある程度の地方偏重はやむを得ないということなのです。

一票の格差是正の議論は単純じゃない
 全ての国民が、国全体のことを考えて政治を考えてくれるなら、それぞれの地元が他の地域とどのように関連しているかを熟慮して政策を論じることが出来るなら、ただちに人口に比例した議席の配分をするべきです。
 しかし現実は違います。だから、たとえ大都市の市民が地方軽視どころか無視したとしても、彼らの生存のために必要不可欠な地方が荒廃しないように、ある程度の格差は必要なのです。どの程度の格差が必要なのかという議論をせずに、拙速に格差是正を訴えることは長期的に見て大都市の不利益になることでしょう。大都市の市民達には、この点をよく考えていただきたいと思います。
posted by しらいし at 13:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 政治・行政

2013年11月06日

減反政策の廃止は以前からわかっていた話


 米の生産調整、いわゆる減反という政策について農林水産省が5年後をめどに廃止する方向で検討に入ったという報道がありました。
 今後、様々な混乱があるものと思いますが、減反政策の廃止はずいぶん以前から想定できた話です。

5年前に予測できたこと
 5年程前のことと思いますが、その頃北斗市議会の議員として2期目を勤めていた私は、議会の質疑において「いずれ、好むと好まざるとにかかわらず、必ず減反政策は廃止されます」と発言したことがありました。その発言の後、農家出身の他の議員達から批判やヤジを多少なりとも受けました。それらの批判はおおむね「農家でもないド素人が農政に口を挟むな」という趣旨だったと記憶しています。そして減反廃止などあり得ないとも言われました。
 しかし各種統計資料を読めば、我が国が減反政策の廃止に舵を切らざるを得なくなることは、当時から十分に予測できたことでした。TPPによってこの流れは多少加速されたようですが、いずれにしろ不可避のことなのです。
 なぜ、5年前の市議会で減反政策の廃止について発言したのかと申しますと、そのさらに先を見据えた政策を提案しようとしたからです。
 世界の食糧生産力と人口のバランスは人口過多に傾きつつあります。食糧の生産力が人口を多少上回ったとしても、配分の機能が最適化されていないため、世界では常に飢える人々を生み出してしまいます。ただし、この状況下ではカネを払えば食糧は手に入ります。これが今までの我が国の状況です。
 しかし、食糧生産力よりも人口が上回ってしまったら、完全に最適な配分が行われたとしても全ての人に食糧は行き渡りません。常識的に考えて、自国民を餓死させてまで他国に食糧を売ることはないので、カネを積んでも売ってくれない状況が現れます。将来の我が国が直面する状況がこれです。
 ここ10年程、世界の食糧生産力と人口は逆転するかしないかの状況であり、さらに悪化しつつあるようですから、いずれ減反政策という生産調整などやっている場合ではないという話になることは、十分予測できたということなのです。

世界の食糧危機は北斗市のチャンス
 ここまでは、世界レベル・国家レベルの話です。北斗市として取り組む政策はもっと具体的な提案です。私が減反政策の廃止という予測を立てた源泉は、上記の通り世界レベルの食糧事情の分析からですが、慢性的な食糧不足がもたらす、もうひとつの大きな状況は食糧価格の高騰です。食糧自給率40%弱(カロリーベース)の我が国にとって、これはまさに国難ですが、同じく自給率200%の北海道にとっては好機到来といえます。作った作物を高値で売れる販売チャンスということです。
 そのまさに書き入れ時に、十分な売り物を用意できないとすれば、実に惜しい話です。その恐れがあることを私は市議会で指摘したのですが、これが冒頭の発言につながる話だったのです。
 減反するということは、田を休ませたり転作することになります。休耕田としてしっかり手入れをしていれば、水田に戻すことは比較的容易ですが、耕作放棄地となって荒れてしまった田は1年では元に戻らないといいます。
 農業政策は短期間での転換が大変難しいものなのです。ですから政府が方針を固めるよりもさらに数年早く自治体として手を打っておけば、ロスを最小限にとどめて農家の収益向上も見込めます。
 例えば、学校給食で使用する米を100%地元産にするとか、水田を維持するために食用米より安い飼料米を奨励したりすることです。このために補助金などの形で市の予算を重点配分したとしても、10年後20年後にその時の農家がチャンスを掴んで高い収益を上げることができれば、税収として投資の回収ができます。

 道路や橋や建物を作ることだけでなく、将来の市場動向を予測して市民の所得を確保するためのソフトな投資をすることも立派な公共投資なのです。国から方針が示されるまでボヤッとしているようでは、地方分権も看板倒れと言わざるを得ません。
タグ:食糧 減反 農政
posted by しらいし at 17:38| Comment(1) | TrackBack(0) | 経済

2013年08月16日

8月15日という日に寄せて(2) 〜今後の国家経営と安全保障 軍事〜

※記事が長くなりましたので分割しました。前半の記事はこちら

●軍事
 中期的には現状の維持と改善、つまり日米安保体制を軸にして事に当たるのがよいでしょう。
 集団的自衛権については大いに議論すべきですが、集団的自衛権の行使イコール世界中で米軍と一緒に戦うことになる、というような単純きわまりない発想は早急に治療した方がよいと思います。どこの国であっても自国の軍隊は自国の国益のために存在するのです。アメリカは自国の都合のために自衛隊を引っ張り出そうとするかもしれませんが、それに100%応じるようでは主権国家とは言えませんし、アメリカもまたそれは理解するでしょう。
 長期的には、同盟国アメリカの凋落を視野に入れる必要があります。超大国であるアメリカの同盟国はいくつもありますが、その中にあって我が国は破格の扱いを受けています(よく日米地位協定や沖縄の基地問題などの話題で我が国が虐げられているような話になりますが、駐留米兵の個人レベルの犯罪について大統領を筆頭にいちいち遺憾の意や謝罪を述べたりする同盟国は日本だけです)。これが戦後68年我が国が平和でいられた大きな要素ですが、アメリカが超大国でなくなった場合、相対的に我が国のトータルとしての軍事プレゼンスは低下し、外交上不利となる力の空白が生じます。力の空白はだいたい厄介な状況を引き起こしますので、その空白を埋める努力が必要になります。その努力が我が国の軍事力増強であるのか、それ以外の方法となるのか、それはその時の状況によりますが、複数の選択肢を持てるよう今から研究を重ねておくべきです。

 短期的な視点としては、最近気になるいくつかのポイントを以下に述べます。

 核保有についてですが、議論をすること自体はそれなりに有益だと思います。が、結論から言うと核保有国になることは利益より害の方が大きいと考えます。なぜなら、我が国は中国やロシアなどと比べると国土が小さく人口の都市への集中度も高いため、核の応酬となった場合、簡単に撃ち負けてしまうからです。核兵器について我が国が取り組むとしたら、核の保有ではなく核ミサイルの迎撃技術を高めることの方が有益です。
 以前、核廃絶運動をしている人に、どうしたら核兵器の廃絶は可能だろうかと問われました。その人はどのような運動をしたら、という意味で尋ねたのでしょうが、私の答えは「核を上回る超兵器を開発する」でした(もちろん相手は憤慨していました)。どういう意味かというと、兵器の歴史を見るといかなる強力な兵器であっても、いずれそれを上回る兵器が開発・配備され、陳腐化して退役してしまう運命にあります。核兵器も同じことで、核を上回る兵器が出てくれば廃絶運動などしなくても勝手に装備から外されて無くなってしまうことでしょう。では、核を上回る超兵器とは何かですが、これ以上の破壊力はどこの軍も求めていません。今の核兵器ですら持てあまし気味で使うに使えない兵器なのですから、もはや外交上の脅しの道具にすぎません。
 しかし、その脅しすら効かなくなったらどうでしょうか。中国にしても北朝鮮にしても我が国に向けている核ミサイルを十分な精度で迎撃されてしまうとしたら、それはもはや脅しにも圧力にもならず、仮に撃ったとしても彼の国の威信やプライドと共に上空で粉々に破壊されるだけになるでしょう。核ミサイルの迎撃技術は、核兵器そのものを陳腐化する可能性が高いのです。
 ここまで述べれば、なぜアメリカがミサイル防衛(MD)技術の開発に執心なのかお分かりですね。攻撃と防御、矛と盾を独占することは絶対的な優位を約束するからです。

 空母の保有についてもよく議論されますが、これも私は反対です。どうも世間の方々は空母を強力で万能な兵器だと勘違いされている向きが多いようですが、マンガやアニメの見過ぎだと言わざるを得ません。
 空母は、どちらかというと攻撃一辺倒の兵器プラットフォームで単艦では自身を守りきれません。そのため空母を中心とした機動部隊や打撃群と呼ばれる複数の艦艇からなる艦隊を編成して運用します。そして、空母に限らず戦闘艦艇は同クラスの艦を4隻持たなければ戦力化できません。ですから我が国が空母をまともな戦力として扱うためには、空母4隻とそれを護衛するためのイージス艦などが12〜16隻、場合によっては随伴する補給艦4隻が最低限必要になるでしょう。人員だけで見ても現在の海上自衛隊の1/3程度が4個の空母機動部隊にとられてしまいます。そして、それだけの資源を投入して何の任務を与えるのでしょう。空母機動部隊はどちらかというと外征向け、他国への侵攻作戦に向いた性格を持つものなのです。
 今どき、大日本帝国を再建して世界征服でもしたいというのなら話は別ですが、国土防衛に専念するだけなら、空母はムダの多い買い物となるでしょう。

 徴兵制について、これほどバカバカしい議論はありません。自称有識者の面々から徴兵制の是非が議題として挙げられる、これ自体がいかに軍事問題についての彼らの知識や理解が欠如しているかの現れと言えます。
 近代戦を戦う軍隊にとって徴兵制は百害あって一利なしです。国を守る精神をうんぬんする方もおられますが、太平洋戦争末期の頃から何一つ進歩されていないようです。軍や兵士にとって攻撃精神はとても大切なものですが、精神のみでは犬死にするだけです。現実の兵器の破壊力は、そんな不撓不屈の攻撃精神など簡単にすり潰すことが出来るのです。湾岸戦争では1000mを超える距離から狙撃されて体が真っ二つになったイラク軍将校がいました。どんな精神力がそれを防げるというのでしょうか。
 無人機すら飛び交うような現代の戦場で身を守りながら戦うためには、強靱な肉体と精神のみならず正確で新しい知識や経験、装備に対する高い練度が必要です。そのためには長く高度な訓練を施さなければなりません。徴兵制で多数の自衛官を揃えても、しっかりした訓練をしなくては弾よけ以下の存在となるでしょう。

 我が国の防衛力はどれくらいが適切なのか、これは難しい問題ですが他国を侵略したいという願望がない以上、他国からの攻撃を防げれるほどの戦力であれば良いことになります。敵対的な国はどれか、ということを随時見極めながらそれらの国々が我が国に対しての攻撃を躊躇する程度の戦力を維持し続けること。このバランス感覚が大切になるでしょう。
posted by しらいし at 19:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 政治・行政

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